感性とことば(5)

 

長島 知正

1.はじめに

 

「感性とことば」という表題による話も今回で5回を数える。「感性とことば」全体のモチーフは、感性の特徴が言葉を介した場合どう捉えられるのか、ということである。

このような話は、“人の感性とは何か”という、より一般的な背景に繋がっているため、上のように話を設定すると、言語を用いない絵画や音楽等において、主役と見なされる感性は言語に現れるのだろうか、と云う疑問を持つ人もいるに違いない。そうした問に応える事はここでの主題からそれるため立ち入らないけれど、少なくとも、次のようには云えるだろう。つまり、絵画や音楽などの作品を深く鑑賞する時、作品を紹介する言葉が助けになったという経験は多くの人がしているのではないだろうか。

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写真5-1 文化に現れる感性(フランスの磁器)

二千年を超える歴史の中で、西欧では、「理性を基礎に据えて世界を把握する一方、感性は理性の下位に位置づけられ、常に主役の座を理性に譲り、対等に見られることはなかった」という伝統的な見方がある。実際、美学として西欧に感性を導入した、バウムガルテンは感性的認識を下位認識と定義した。しかし他方、哲学の専門家などは、それはステレオタイプ化された過去のものだと云うだろう。とは云え、専門的に感性を扱うような人を除けば、今日でも伝統的な見方が未だ十分“生きている”のではないだろうか。本稿でもこれまで、こうした立場から、人間の現在の感性は“宙づり状態”にあることや情報化がリードする今日の社会の課題などを指摘してきた。

しかし、20世紀末ごろからインターネットを基盤とする情報化技術の進展は予想を超え、前世紀とは質的に異なったグローバルな情報化社会が急激に形を見せ始めている。文明の発展史において、文明の大きな変化に伴って、感性も大きく揺さぶられてきたのは洋の東西を問わないが、少なくとも、「感性を理性の下位機能と見なす」といった近代西欧のくびきを脱して新しい感性観を確立することが、インターネット時代の工学を創る上で求められているように思われる。

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写真5-2 日本の床の間と生け花の花器(陶器)

前回まで、近代科学の対象として言語を捉えたソシュールの考えを手がかりに、感性とことばはどのように繋がるのか、大雑把に整理しながら問題点を洗い出す作業を行ってきた。今回は、そうした議論の中でも特に、感性が言葉によってどのように捉えられるかについて、ここで得られた事柄と共にこれまでの議論の要点を集約する。また、その結果に基づいて、これからの時代の工学と芸術分野における感性の繋がりの課題などについても考察したい。

 

2.記憶の中に潜むイメージの連なり:「連合関係」による感性

 

既に述べたことであるが、ソシュールの言語学の基礎に「体系」という考え方がある。これはソシュール言語学の基本的仮説と云えることで、以下のようなものである。

ソシュールによれば、言語は、要素が集まったものだが、決して予め性質が決められた要素が集まったものではなく、要素の性質は他の要素が与えられて、はじめて相互の関係から定まるものである。ソシュールはこのように、自存的な意味をもたない要素の集まりを「体系」と呼び、言語とはこのような体系の性質を持つ集合の典型であると主張した。自然科学や工学で習うシステムでは予めきまった性質を持つ要素が互いに相互作用するという形であることと対照的である。ソシュールはこの「体系」に、生きた人間の言葉の基本的原理を求めたようで、彼の言語理論における、「ことばの人間原理」がここに埋め込まれていると見ることが出来そうである。ソシュールが生きた20世紀初頭は、言語学が歴史学から科学に生まれ変わろうとしていたと云われ、ダーウインの進化論の影響など、研究方法の変化が起き始めていたが、ソシュールが特筆に値する点は、言語を把握するための枠組みとして、実証的自然科学や観念論的な言語哲学とも異なる、人間そのものを正面に据えた「人間学」に初めて着目した事ではないかと思う。53            図5-1 人はことばを話す動物

ソシュールは、この「体系」を認めるとき、次の2種類の関係によって言葉の体系が特徴づけられることを指摘した。

ソシュールの重視したのは「連合関係」(Rapport Associatif)と云う関係だったが、もう一つの関係は「連辞関係」(Rapport Syntagmatique)と呼ばれた。これらの二つの関係は後の言語研究者によって夫々「範列関係」および「統合関係」と云い換えられた。以下、二つの関係をかいつまんで説明しよう。

言葉の特徴として、二つの語を同時には話せない、線状性と呼ばれる一次元性がある。この性質によって、意味のある文が形成されるために、語は順に配列されなければならない。簡単に云えば、連辞関係とは、文にこうして現れる語の順序関係のことである。通常、文には主語と述語があるが、言語によってそれらは決まった順序で配置されている。そうした基本的な文の形態(構造)はもちろん重要な一つの連辞関係である。しかし、ソシュール自身は何故か、文の構造自体も含め具体的解析をほとんど行わなかった。

以下では、単語の意味にこだわっていたソシュールにならい、慣用句や熟語のような単語レベルの小さな要素を対象として、連辞関係を説明してみよう。慣用句の表現は言語が違えば異なり、それは生活に密着した表現として、固有の文化を色濃く映し出すものである。ここで、例を挙げよう。

慣用句としては、

〇・油を売る、腹を割る・脂がのる、肝をひやす、猫をかぶる・水をさす、、、

等の句、

熟語としては、

〇・骨折り、・首切り、・目玉焼き、、、

・(*)書物、熟語、・地球、・鉄道、・時間、、、

(*):二つ以上の漢字を組み合わせて作られた熟語(熟字とも云う)。

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図5-2 目玉 焼き

例を挙げれば限りないが、慣用句や上記の熟語の特徴は、複数の単語(語)の組み合わせで構成されているが、構成要素が元来持っている意味からは全体の意味が決まらない表現になっている。しかも、それらの要素の順序を変えると、慣用句や熟語としての意味は変わるか失われてしまう。こうした慣用句などがはっきりと示していることは、言語(この例では日本語)では、要素の並び方、つまり語順が基本的な働きをするということである。

ソシュールが強い関心を寄せたのは、もう一つの連合関係(範列関係)であった。

範列関係は、実際の発話で現れなかったが、語る主体の選択次第でいつでも代わりに使用される可能性がある同系列の要素群の関係のことである。例えば、「私は本を読む」という文では、「私」は「あなた」や「彼・彼女」に、また「本」は「新聞、マンガ、手紙等々様々なものに、更に「読む」は「買う」や「捨てる」などに代えられる。それらは潜在的に文を組み立てることが可能な候補者の関係にある。

上の説明のように範列関係(Rapport Paragmatique)とは、文の中に実際にある語とそれの代わりに同じ位置を占めうる語の潜在的な関係(選択関係)であるが、ソシュールが当初考えた連合関係の考え方が十分反映されているとは云えない。つまり、ソシュールは、英語のassociationが連想を意味するように、ある単語があった時、連合関係とはそれと何らかの類似した性質をもつ語が連想の働きによって繋がる関係を本質と考えていた。実際以前説明したように、ソシュールは、文法的な資格のない語であっても、意味や音あるいは形態が類似していれば、それらの語を連合すると見ていた。

連合関係では、連想のメカニズムによって類似した語が次々に想起されることになるが、ラングの中でも、狭い意味の論理に含まれないイメージや想像、情念、感情などのこころの働きとして感性に関わる語がこの連合関係によって捉えられることは了解されよう。

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図5-3 冬のイメージ(アイコン)

ところで、ソシュールは連合関係について上述したように連想を基礎に捉えていたが、後の言語学では範列関係と云い換えられた。ソシュールの考えた連合関係と後の言語学における範列関係は完全には重ならない、というよりむしろ違いがあることは上の説明からも明らかだろう。 筆者の印象では、これらの関連は、言語学の学術語としては範列関係が選ばれ、思想的には、連合関係の語が受け継がれたように思われる。この食い違いは言語学と思想に跨っており、ギャップをきちんと埋めることは現在の筆者の力に余るため、別の機会の課題としたい。

以上の連辞関係、および連合関係という二つの関係は基本的で、言語の使用に関する結合軸および選択軸という独立な二軸と見做されている。既に述べたように、連辞関係が実際の文に現れる顕在的な関係である一方、連合関係(範列関係)は実際には表面に現れていない潜在的な関係であるが、これらはラングと見做せる関係である。

ここで、ランガージュ、ラング、パロールの区別を直感的につかむため、“ことば“という語を利用してもう一度説明しておくことにしよう。

”ことば“という語の意味は多様であるけれど、少なくとも

(あ)人間は動物と違い、言葉を使うという意味での”ことば“、

(い)フランス語、日本語等の個別言語という意味での”ことば“、そして、

(う)個人が日常実際に使う”ことば“

という3種類ある。ここで、(あ)->ランカージュ、(い)->ラング、(う)―>パロールに対応させて考えれば、それらの関係を理解し易いのではないだろうか。

 

3.読み取る感性:センス=感性の立場から

 

普段の生活で私たちはことばを特に意識することなく使っているが、何気ない言葉の使い方の中に、考えると大変不思議なことが沢山ある。それらの多くは、科学的にはおそらく未だ説明されていないだろう。もっとも言葉を科学的に説明するとはどういうことか、それ自体大きな問題であるが、以下では常識的な意味で科学とは異なるアプローチによってそのような事柄の一部を取りあげてみよう。

わが国では入学するとすぐ言葉の基本として読み書きを習うため、ほとんどの人が話すことのみならず読み、書きの基本を身に着けている。が、世界中がそうなっている訳ではない。世界には、話すことが出来ても、字が読めない人は未だ沢山いる。字が読めない人達は言葉を使う能力が動物たちと同じだと云うのではない。それは主に経済的な理由で教育を受けられないだけなのだ。話しことばと書きことばの2種類を当たり前のこととして使って暮らしているのは、我が国に限らず、きちんと母国語教育をしている国では皆そうだろう。

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図5-4 母国語の習得は何より大切

冒頭、不思議といったのは、書きことばは文字で、一方話しことばは音声によるという事実に発する。私たちは国語の授業等で、テキストを使って何かを学習する場合、先生が指示した箇所の文を目で追うと同時に、読み上げられた先生の声を聞きとる、という作業を当然のこととして繰り返し行っている。これが出来なければ、子供は間違いなく落ちこぼれる。

問題は、目が捉えることばと耳で捉えることばを“同じ一つのことば”として認めることなのだ。視覚系と聴覚系は、光や音という全く異なった実体が運ぶ情報を取り込むための感覚器官であることや、同じ言葉を目で追う場合と音で聞く場合、光と音の伝達速度に違いがあるにも拘らず、人はいとも簡単にそうした違いをのりこえて、同じ言葉と捉えるのは何故か、である。

デカルトによる合理的精神と共に近代科学の基礎が確立したと云われるが、人間の言語をもそのような近代科学として捉えようとする、チョムスキーの生成文法等の言語理論は、自然言語の持つ機能として上で議論した「連合関係」を欠くことになる、という中村の指摘(「感性の覚醒」)は的を射たものであろう。しかし、連合関係と統合関係が言語にとって基本的であるとしても、それはソシュールのラングとして導かれた性質である。ラングは社会制度として成り立つことが要請された言語であり、典型的には詩などに見られる人間の感性がラングによって尽きされるとはもちろん云えない。

ラングによっては感性が全く扱えないと云っているのではない。が、ここではそのことに立ち入らず、ラングという社会制度として出来上がった言語ではなく、そのような近代的なことばが出来上がるより以前に着目する。ことばが出来上がる以前とはどういうことか、定まってはいないが、ここでは、西欧で近代的科学などが登場するはるか前の、ギリシャ時代に遡って言葉がどう捉えられていたのか、特に、ことばの原初的な意味がどのように成立したかに的を絞ろう。

良く知られているように、西欧文明の基礎にギリシャ時代に創られた哲学の影響、特に、理性や合理的精神の基盤としてロゴス(Logos)がある。

とは言え、ロゴスという言葉の意味は言葉、計算、比例、理法、理性、根拠など相当に広く、その内容の本質を把握することは容易ではない。哲学者なら、こうした広い意味に共通するものは何か、当然考えるに違いない。丸山圭三郎によると、ハイデカーはロゴスの動詞、“ロゴスを働かせる”に相当する“レゲイン”に注目し、ロゴスを働かせるとは、「述べる」、「言う」、「物語る」と共に、「読む」ことであるが、そこに共通する意味は「取り集めて目の前に置く」ことであるとした。

云い換えれば、ロゴスの最も基本的な働きである「取り集めて目の前に置く」とは、身のまわりの雑多な世界から、多様な事物を集め、一定の尺度に従ってそれらを秩序だて、一つのカテゴリーにくくるということになる。この中に秩序立てや統一という理性の働きを支える概念が含まれていることは明らかだろう。このようにロゴスの働きとして、ことばと論理をまとめ上げたハイデカーの見立ては見事である。

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図5-5 小鳥のさえずりが意味するもの

しかし、筆者がハイデカー・丸山によるレゲインの意味から教えられたことは、そこにはない。むしろ、レゲインには、「述べる」、「言う」と共に「読む」という働きがあること、つまり、ことばの働きとして「話す」と「読む」は一つのことであると云う指摘である。

これは、聴覚系(話し言葉)と視覚系(書き言葉)のことばは、別々のものではなく元来一つの言葉だと云うことである。

ここで、感性との関わりで注目されるのは、「読む」という言葉には、狭い意味の目を使って読むことに留まらない点である。日常生活において、私たちは「読む」と云う意味を、視覚によって文字を追うことに留まらず、広く、外界にある対象の印象を受け止める心の働きとして用いている。

例えば、

〇ひらひら舞い落ちる葉を見て、人生のうつろいを感じ、

また、

〇早朝の小鳥のさえずりに、その日の幸運を読み取る。

この例にあるように、私たちは言葉でないもの(外界の情景や音)から、心に何かの印象を「読み取って」いる。こうした心の働きは対象に(その意味とは別の)何かを感じとる性質、つまり、感性と云えるだろう。そして、それが詩を作らせる感性ということではないのだろうか。

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図5-6 やまとうた(小倉百人一首)

つまり、「読む」には、目で文字を追うといった視覚の直接的機能を超えて、外界の対象(あるいは、文に書かれたテクスト)の印象を感じ取る(=察する)という精神の働きが言葉の原初的な意味として、ロゴスの働きに含まれていると考えられるのである。この意味で、こころに感じるという精神的働きは、視覚(見る)や聴覚(聞く)などの個別感覚(五感)を超え、それらに共通した「感じる」という感覚をもたらすアリストテレスの“共通感覚(common sense)”と考えることも可能である。ただし、哲学者は歴史的な経緯から、躊躇せずに“共通感覚”を取りあげるようだが、現代の“科学的”な意識としては、物的論拠を示すことは時代の流れだから、今後は共通感覚についても脳科学を意識した議論も考えなくてはならないだろう。

ところで、ロゴスは世界を秩序立て、客観性のあるものを扱う理性や合理的精神のためのものであるから、主観に基づいた「感じ」がロゴスに由来するというのは、自己矛盾ではないかと思うかも知れない。が、それは、むしろ、ロゴスが世界を客観的に扱う基盤だという固定的な認識に依るからであろう。つまり、元来、ロゴスによる世界のカテゴリー化、つまり分節は主観的になされるのであって、連続した世界を分節する線は主観的な差異を「感じ分ける」働きによるはずだ。

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図5-7 Taste the Difference

本稿では当初から、「感性とはセンスである」と述べてきた。これは感性という言葉が西欧で登場した経緯から見れば、相当省略した云い方だが、感性=センスということの要点は、対象の中に微妙な差異を感じ分ける、と云うことである。感性をセンスと捉える観点は筆者が初めてのものではない。だが、感性=センスという立場に立つ場合、では、そうしたセンスとはどこから来るのか、今までその由来を具体的に示せないことが一つの課題であった。

対象の中に微妙な差異を直感的に感じ分けることと「読む」という心の中で「察する」働きは基本的に重なる。それ故、センスの由来をここに見出せると云えるだろう、ということがこの節および、ここまでの「感性とことば」全体における、暫定的な結論である。

 

4.結語に代えて;感性で繋ぐ工学

 

これまで、感性とことばの繋がりについて考察してきたが、当然未だ多くの問題が残されている。中でも、感性の核である「感じる」という感じ方には相当な広がりがあることから来る、感性についての多様な理解が混在していることに大きな問題がある。

本稿では暫定的に、感性は大別して、感性の根源を身体に発する情念とするものと、知的なものとする二種に分けられるという観点から、感性に対する議論を進めてきた。

具体的には、これら二種の感性へのアプローチとして、筆者は第3節のレゲインが後者に、また第2節の連合関係が前者に対応したものであると示したつもりである。しかし、これら二種の感性の関係については現在も全くあいまいである。今後それらが整合的な形で統一されるか、当然解明していく必要がある。

最後に、感性の新たな展開の手がかりとして、感性とことばの関係を、理系を含む広い視点から眺めておきたい。

私たちは、例えば、見たこともないような夕焼けの美しさに、“得も言われぬ“とか“言葉にならない”と云うことを口にする。その時の体験について、夕焼けのあまりの美しさに、ことばを失った、と後になって説明される。この例のように、“言葉にならない”ということは、非日常的で稀な出来事に遭遇した場面で起こると思っている人は多い。

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図5-8 果物(梨)の色合いは“言葉になる”?

確かに、そのような場合はある。が、言葉にならないのは、決して特別なことがあった場合に限られるのではない。この認識は感性のこれからの展開にも影響することなので、以下説明加えよう。

例えば、日常生活で、果物屋(露店)で買い物する場面を考えよう。美味しそうな果物が棚に並んでいる中に良さそうな梨があった。だが、その梨の名前が分からない。その時、目をつけた梨を手に入れるためには、梨の様子を言葉で、つまり、大きめの茶色のやつなどと伝える必要に迫られる。運悪く、似たような梨が並べられている場合には、薄い茶色とか、黄色がかった茶色などと、より細かな色の違いが必要になるだろう。

しかし、更に細かな色の違いが必要になれば、それらを言葉で言い表すことは事実状困難になる。つまり、そこに言葉にできる限界がある。この限界がどこにあるかは相対的で、人(職業)や文化によって明らかに違うが、限界はある。言葉にならないということは、このように日常生活の中ですぐにぶつかることなのである。

このことは、言葉にならない世界は、ポランニーの暗黙知などにも見られるように、非常な広がりを持っていることを示唆している。従来、そのような世界を対象にして来た典型が絵画や音楽などの芸術であった。しかし、創造を旨とする工学は今後、芸術分野と並んで、その列に加わり新しい文化を創って行くという視点に立つべきではないだろうか。

もちろん、芸術分野の技術などを単に工学に導入すると云っているのではない。また、先端科学を応用すれば良いというのでもない。限られた資源のこの地球で、多様な人間が生きいきと暮らして行ける新しい価値社会を実現するための工学の方法を創るのである。そのためにまず、理系の人がセンスとして感性を身につけることが求められているのである。

 

あとがき:

“感性とことば”がどのように繋がっているか、これまで5回にわたって考えてきた。いささかなりとも、新たなことがあるよう念じながら、毎回原稿取り組んでいるが、この辺りでガス補給が必要そうである。そのため小休止して、再び「感性とことば」の続きなどの形で、”世界を有意味化する方法としてのことばによる工学”にもチャレンジしたい。

謝辞:

本稿では、読みやすくするため、多くの図、イラスト、写真を利用している。

筆者の自作の図以外に利用した図、イラストはすべて、許諾なしで利用を許可することが明記されているか、またはパブリックドメイン(PD)であることが明確にされたものである。ここで、関係者に感謝の意を表したい。なお、写真は筆者が撮影したものである。

参考文献:

本稿は研究書ではないため、参考文献を逐一挙げることは控えた。重要な著作については、本文中で引用しているが、感性全般や工学との関係などの記述は十分ではないだろう。筆者の前著、感性的思考(東海大学出版会、2014)を参照頂ければ幸いである。