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カントの感性とその特徴(3)

ー 感性に創造性はあるか ―

 

1.はじめに

どれほどの影響を与えたかは別として、感性がここ20年ほどの間注目されてきたとは言えそうである。こうした一つの動きは美学に、またそれとは別に工学分野で見られた。それら二つの動きはほぼ独立なまま、残念ながら互いに影響をおよぼすことなく今日に至っている。

美学で感性が注目されるのは、「美学は感性学として始まった」という歴史的な経緯からみれば、特に不思議なことではない。

他方、工学で、何故感性が注目されたのか。その動機は、技術的差別化が難しくなったモノづくりにおいて、従来と質的に異なった新しい観点が望まれていたからであった。工学と言う自然科学を基盤に持つ体系に、感性と言う全く異質の体系を結びつけるという破天荒な“感性工学”のアイディアには、ものが売れないという市場経済的限界を打ち破る技術的革新、即ち、簡単にまねできないような技術への期待があった。ここで注目されるのは、感性と工学を結びつけることによって、従来にない独創的な技術を生み出せるのではないかとう期待の背後にある、感性は創造性に結びつくという想定である。

何故、こう想定されるのだろう。

創造性のある芸術家は情熱家が多いからだろうか。あるいは自然科学を支える、推論によって進められる理性的思考とことなり、感性は直観の働きとされるからだろうか。

しかし、そうした思いは以前から断片的に語られるが、少し考えると、感性と創造性の結びつきは決して自明なことではない。もし、感性が必然的に創造性と結びつくものなら、その結びつきは具体的に示されるハズだが、感性に創造性があるということは未だ明確にされていない。むしろ、その問題に答えること自体難しい状況にあると言わなければない。つまり、感性には、定義のレベルで人々の間で合意がないからである。

これを憂うべき状態だということは簡単だが、わが国の近代化の歴史に埋め込まれたひずみに起因しており、感性など関心のない人にも、他人事と言えない事態に繋がっている。

つまり、感性に留まらず、例えば、社会、文化、民主主義のような最も基本的な概念の多くを明治期に導入された翻訳語に依存しているわが国では、対応する用語は多かれ少なかれ矛盾や混乱の種を孕んでいるからだ。

このような状態で関係した諸概念を理解することには限界があり、仮に異論があっても、ちぐはぐなまま互いの理解は当然深まらない。これは文系・理系の区別をこえ、社会的および文化的基礎体力の脆弱さに直結する大問題なのである。例えば、日本人の意識調査で多数を占めるのは、決まって”どちらともいえない”という解答になる不思議な現象は、そこに繋がっている可能性もある。

脱線した話を本題に戻そう。

カントは純粋理性批判の中で、感性、悟性、理性という概念を設定し、人間の経験に基づく認識論を構築して、コペルニクス的転回をもたらした。カントは自らの複雑な議論を曖昧さが生まれないよう、独自の用語を駆使して注意深く進めた点で際立っている。

その意味で、感性に関する議論の今日的出発点としてカントはむしろふさわしいと思われる。

2.カントの感性の特徴:貧しい感性

前回とりあげたように、カントは「”直観の多様”が感性の直観形式や悟性概念の働きによって、経験の対象が造成される。」という認識の枠組みを与えた。言い換えると、カントにおいて、(感覚的)知覚現象は、センスデータを受容する感性と、概念を適用する悟性が構想力を介して共同作業するものとして説明される。ここで、センスデータはカントの用語ではないが、カントが”直観の多様”と呼ぶ、感性によって受容されたままの一切の心理的加工処理が加えられていない無垢のデータ(情報)である。この知覚の構図において、“仮に”感性だけを抜き出す場合、視覚を例にすればそれは単なる色班であって、未だ意識されることの無い、経験以前のものである。なお、通常の生活では、それに引き続く悟性の働きによって知覚され、経験となる。

図1.感動の映画

ところで、上で説明したような感性は果たして創造性を持てるのだろうか。常識的な見方では、そこに創造性はなさそうに思える。だが、「日本的感性」(中公新書)の著者佐々木健一は”ある”と言う[1}。佐々木はカントの認識論に基づいて感性と創造性の関係を議論する。その論旨を追うことにしよう。

 

カントの認識論で感性が何故創造性と結びつくのか。

この議論の発端は、「感性は、悟性の働きによる一切の“概念”との結びつきを持たない」と言うカントの認識の構図に求められよう。しかし、問題はその先の議論がどうなっているかだ。以下かいつまんでまとめてみよう。

感性とは、「おしん」の物語に涙するような“感じやすさ”のことと思っている日本人は多そうである。だが、そうした感じやすさは、日本だけのものではない。西欧では、不幸な人を見て同情するルソーが描く感受性が知られ、それは、道徳的規範として西欧社会の基礎に影響を与えた。

一方、佐々木によれば、感性とは、「あらゆる悟性の働きかけを絶つことである」という。社会の常識や伝統的な価値は結局のところ悟性の働きによるから、それは、「感性とはあらゆる社会的常識や伝統的な価値を絶つこと」と読み替えられる。この”貧しい感性 ”と呼ばれる感性の解釈は、先の感受性とは明らかに対立的である。

この感性の議論に新規性が認められるが、カントの感性自身との間にはズレを感じてしまう。その点を少し詰めておこう。

先に、カントの感性は、「視覚を例にして、悟性が働く以前を仮に考えれば、それは単なる“色班”にすぎない」と言った。日常の経験では、悟性が働き、その色班が実際には、ありふれた机上のコップだという、意味づけがされる。とは言え、色班と概念的な意味付けの間には質的なギャップがある。カントは、感性と悟性の間を媒介する”構想力”を導入してギャップを埋めた。即ち、感性の色班をなにかまとまった像として浮かび上がらせることによって概念とマッチングが図られる。まとまった像が浮かび上がった段階を“感性の経験”と見做せば、そこに概念の働きは一切ない。浮かび上がる像を日常見慣れた、ありふれた像とするのは、悟性の働きだから、創造的な感性であるためには、悟性の働きを断固拒否しなければならない、と佐々木は言うのである。

以上の佐々木の主張から筆者が気づいた点もあるが、それについてはあとで述べることにして、先ず、その解釈の問題点をまとめよう。

3.貧しい感性の問題点

  • カントの感性には受動性という基本的性格がある。悟性による一切の概念の働きを拒絶する、といった一種の意思的で能動的な性質を考えるのは矛盾ではないのか。
  • 「一切の概念から働きかけを絶つ」ということを、感性のもの(性質)と認めたとしても、それが何故創造性と言えるのか。

  貧しい感性は、創造性への条件であっても、創造性自身でなく、創造性の一つの条件に過ぎないのではないか。能動的な要素を含まない創造性は成り立つのだろうか。

  • 佐々木は、感性と言う言葉を、カントの感性(=Sinnlichkeit)を下敷きにおきながらも日本語として考えたという。つまり、日本語の意味より、感性=感じるという性質と捉えようとしている。こういう観点からすれば、感性を、悟性から切り離して、独自に考える事が許される部分があるかもしれない。だが、もしカントとは異なる解釈を加えるなら、感性だけに留まらず、認識全体の中で整合性が示されなければ、恣意的と言われよう。

図2.太陽の塔

 

4.まとめ

佐々木の主張には上記のような課題が残っているが、他方、その主張によって筆者が気づいた点もある。ここでは、それを述べよう。

“貧しい感性という議論から、岡本太郎の感性”を取り上げたコラムを以前に書いたことを思い出した(本非定期コラム:共感の視点(8)-岡本太郎の感性と感動―)。あのコラムは相当苦労した記憶がある。コラムが直接の対象にしたのは、美術評論家(椹木野衣)が岡本太郎の芸術について書いたエッセイ:「感性は感動しない」であった。詳細は省き骨子だけ述べれば、そのエッセイのタイトルは「感性は感動しない」であるが、筆者は当時、それは逆説的に表現にしたもので、岡本太郎の芸術論を表しているエッセイの内容の主旨は“感性は感動する”と解釈されるという事を、コラムの結論とした。

あの解釈はそれでよいと思う一方で、今一つ納得いかない後味の悪さが残されていたが、今回の佐々木の論説から、岡本太郎が語る芸術論を理解できた気がした。コラムの解釈は誤りで、「感性は感動しない」は文字通り解釈すべきと考えるようになった。

椹木のエッセイは、感性を主題にしているにもかかわらず、感性の定義はおろか、説明も全くない。感動する、しないどちらにも解釈できる論述の大いなるあいまいさは、文章で身体の調子がおかしくなるという珍しい体験をさせた。

岡本太郎が感性について言わんとすることを察知できたのは佐々木の文章力であった。近年国語の読解力が問題にされているが、筆者の経験を敢えて指摘しておきたい。

結論をまとめよう。

筆者が学んだように、佐々木の論旨は、芸術論、あるいは広い意味の感性論の文脈の中で認められるのではないか。

他方、貧しい感性によるカントの感性の解釈は、厳密には本文中に指摘した問題が残っている。

感性と関わる中で創造性を詰めていく別の方法はあるのだろうか。この議論には創造性の定義が必要になると思われるが、その他、一般に、創造性は想像力と繋がりがあると考えられていることに着目したい。

カントの認識論は、感性以外の要素として、悟性、理性のほか構想力があることは既に述べた。構想力は想像力と訳されることもあるように、想像力の一種と考えられている。

次回以降、とりあえず、カントの構想力の検討を含め、想像力と創造性について検討していきたい。

 

長島 知正  (2020-05-06)

 

参考文献

[1]佐々木健一:感性は創造的でありうるか,アイステーシス,行路社.2001.