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イメージ (2)

ー カントにおける想像力とイメージ ー

1.序:カントの想像力とイメージ

想像力は像(イメージ)をこころに思い描くことと捉えられることが多い。前回、このような一般的な立場から想像力やイメージを捉え、例えば、イメージの動性がどのようにして生まれるかなどについて検討した。

本稿では、カントは想像力についてどう考えていたのか、イメージに対する見方と合わせ考察する。

純粋理性批判は有名であっても、そこで何が問題になっているのか、例えばアプリオリな総合判断とか理性の誤謬といった用語を聞いても中身はほとんど分からないのが普通だろう。何か縁があった人でも、大抵はホコリにまみれて本棚の奥で寝ているのではないか。近寄りがたさの原因は、複雑な論理構成があるにしても、むしろカント固有の緻密な概念群を表現する用語にあるように感じているのは筆者だけではなさそうだ。簡単に言えば、固有の意味を担った数多くの言葉(造語)を理解することが大変で、根気がいる。挫折する大きな理由はそこにあり、その点で数学と似ていると言えるかも知れない。

ところで、イメージやそこに関わる想像力の問題は、認識や思考にまたがる広い領域に及ぶと思われるが、カントに限らず理論的な整備が進んでいるようには見えない。

実際、カントの理論(認識論)が応用されたという議論はほとんど知られていないのではないか。カントの用語の壁は厚いこともあり、一筋縄にはいかなそうだが、応用への道がないとはだれも示したわけではない。

カントの“もの自体”は、経験する主体と独立に、それ自身として個油のあり様をしめしていると考えられる。それを不可知なものとするカントは、知り得ない“もの自体”と区別された、人間にとって感覚出来る“現象”が認識、経験の対象になるとした。

ところで、カントは“イメージ”と言う言葉自体は使っていない。ここでは試みとして、“現象”に注目し、形をもった現象をイメージと見做し、その上でカントの想像力、つまり構想力を考えていく。そうすることによって、先ずはカントの認識論の広がり、特に広範なアートなどの分野への広がりを検討したいからである。

イメージ=形をもった現象と見做すということは、言い換えれば、現象に形(形式)が与えられたものをイメージと考えることを意味する。

図1.アートの構想

2.悟性

ところで、カントは純粋理性批において、人間の認識能力の要素として、感性、悟性、理性に着目している。(感性、悟性、理性と言う言葉は今日日常的に使われているけれど、その意味は、カントが意図した意味とは同じでないことに留意したい。)

このうち、本稿が主として関わるのは、感性と悟性である。既に説明したように、感性とは対象によって触発され、感覚的な直観として生じる多様な表象を受動的に受け入れる能力である。

悟性については、純粋理性批判でカントはいろいろな言い方をしていて、統一されていないが、緒言の中で、広い視点から次のように述べている;

「人間の認識には二つの根幹がある。恐らくこれらの根幹は、(中略)唯一の 根から生じたものであろう。この根幹というのは、即ち感性と悟性である。そして、感性によって我々に対象が与えられ、また悟性によってこの対象が考えられる(思惟される)。」

これは、人間の認識に関する感性と悟性の基本的関係を簡潔に規定しているのだが、悟性自体については、明らかに物足りない。より踏み込んだ説明が必要である。簡単に言えば、受動的な感性に対し、カントが考える能動性の能力としての悟性は、

感性が受け入れた多様な直観(印象)を総合して(まとめて)、対象についての判断をもたらす自発的能力と言えよう。言い換えると、

悟性は、感性が受け入れる質料(素材)に、形(形式)を与え、(対象について)規則づける能力、つまり、概念の能力である。

緒言での説明に似ているが、悟性についてカント自身の言葉を引いておこう。

「認識には、二つの要素が必要なのである。第一は(純粋悟性)概念(カテゴリー)であり、これによって一般に対象が思惟される。第二は直観であり、これによって、対象が与えられる。

もし概念に、これに対応する直観が与えられえないとしたら、その概念は、形式から言えば一個の思考形式であるが、対象を持たないのだから、そうした概念によってはおよそものの認識は不可能であろう。このような場合には、私の思考が適用され得る何ものもー私に知られるものとしてはー全く存在しないし、また存在しえないからである。」

上の“純粋悟性概念”という語は、

カントが、悟性の基本的特徴として、純粋悟性概念と言うアプリオリな形式の枠組みを要請したものである。つまり、(悟性の)判断には決められた形式としてカテゴリーがあり、判断はその中で行われるのである。このカテゴリーを与えるのが純粋悟性概念である。純粋悟性概念は純粋概念であって、数学においてその典型例が見られるような、経験には関わらない概念であり、経験的概念と区別される。

図2.想像力

  カントは判断表から、4つのカテゴリー(分量、性質、関係、様態)のそれぞれが3つの分枝を持つ計12個のカテゴリーを導き、悟性による判断の枠組みとして純粋悟性概念を与えた。またそれが、アプリオリな概念、つまり、経験に先立つ概念であることを示している。しかし、その内容の詳細にはここでは立ち入らないで、むしろ、感性によって与えられる直観的印象と悟性の思惟という全く異なった能力が何故繋がるか、という問題に注目しよう。

ここでカントが考えるのが、感性と悟性を媒介する能力としての“構想力”である。

3. 構想力と図式

もう一度繰り返しておこう:

悟性は、感性で与えられる多様な印象を結合し、形をもったモノにまとめる(総合する)という働きをする。ここで、与えられた多様を、結合し、一定の形をもったもの(姿)にまとめる(総合する)という働きは構想力によるものと考えられる。その働きは、感性と悟性双方にまたがることによって両者を媒介するのである。

ところで、想像力は一般にそこにないものを心に描く能力を言い、例えば「それは全く想像力に欠ける話だ」といったように使われる。カントの構想力は、広い意味の想像力であっても、一般的な想像力や連想とは区別され、特に“産出的な”構想力(Productive Einbildung Kraft)と呼ばれる。“産出的構想力”については後で詳しく述べるが、カントはそれと連想を特徴づける“再生的構想力”と対比して違いを強調している。

カントの構想力(産出的構想力)が一般の想像力と区別される大きな特徴は、構想力が“図式(Schema)”と呼ばれるアプリオリな形式によって支えられているからと言えるだろう。どういうことか。以下、カントの産出的構想力と図式の関係に焦点を絞って考えよう。その結果、カントが“産出的”と呼ぶ意味が明らかになるだろう。

まず、構想力や図式について、カントの言葉を聞こう:

「ある対象を一つの概念のもとに包摂する場合には、その対象はいつでも概念と同種なものでなければならない。換言すれば、その概念は、その概念のもとに包摂せられる対象において表象されるところのものを、自らのうちに含んでいなければならない。(中略1)ところで、純粋悟性概念と経験的(つまりは感性的な)直観を比較してみると、両者は異種的で、純粋悟性概念はいかなる直観においても決して見出し得ない。ならば、直観を純粋悟性概念のもとに包摂することはどうして可能か、従ってまたカテゴリーを現象に適応することはどうして可能だろうか。(中略2)すると、一方でカテゴリーと、また他方では現象とそれぞれ同種的であって、しかもカテゴリーを現象に適用することを可能にするような第三のものがなければならないことは明らかである。このような媒介的な役目をする表象は、(経験的なものを一切含まない)純粋な表象であって、しかも一方では知性的で、また他方では感性的なものでなければならない。このような表象が超越論的(transzendentales Schema)なのである。」

上の文では、構想力がなぜ問題になるのか、カント自身の問題意識や基本的な考え方(哲学的な立場)が踏み込んで述べられている

以下、それを少し読み解くことにしよう。まず、前半でカントが考える問題点が指摘される。つまり、悟性の基礎にある純粋悟性概念は経験と無関係なものであるのに対して、感性による経験的直観は必ず感覚を介して経験される。だから、両者は全く別のものである。にも拘らず、私たちは、現象を直観して、それが何であるかを判断し、認識するという経験をしている。と言うことは、こういった両者に関して、後者=経験的直観を前者=純粋悟性概念に包摂する、つまり直観を概念の中に包み込むこと、また逆に、カテゴリー(=純粋悟性概念)を与えられた現象(=感覚的に直観されたこと)に適用しているが、これらをどう考えれば良いのか? 以上が前半部分である。

更に問題を明確に指摘しているのが、後半である。つまり、カテゴリーを現象へ適用するためには、一方でカテゴリーと、他方では現象と同じ種類になる必要があるが、そのためには両者を媒介する第三のモノが必要であろう。

それを(構想力として)可能にするのが“超越論的図式”である。

この説明にある、図式とは何なのか? 図式はSchemaの訳語であり、図式には、図取り、つまり物の形を図として描くこと、あるいは、基本的な見取り図と言う意味がある。しかしここでは、図式の日本語の意味にはないが、その原語Schemaがもつ意味、即ち、計画(する)あるいは、あまり良い意味には使われないが、たくらみ(たくらむ)という意味がより近いと思われる。何故なら、その場合、“超越論的“な図式とは、構想力を可能にしている無意識のうちで支える計画、言い換えれば、構想力を可能にしている意識下ではたらく構えという解釈に素直に導くことになるからである。なお、ここで超越論的とは、簡単には、経験より前に(アプリオリに)、いわば本能的に決まっているという意味と考えられる。

ついでながら、図式ということばを一般に広めた、メルロポンティの身体図式の図式も、その意味を計画として、無意識のうちの身体計画と解釈すれば、メルロポンティとカントの繫がりをより鮮明にするのに役立つかも知れない。ここには、広い意味で感性の問題と思われている、合気道など身体性に関わる面白い問題があるように思われる。

ここで、カントが構想力とした生成的構成力とは何かということも取り上げておこう。上で見たように、図式に従って構成力を働かせる時、(1)現象には、素材に形が与えられる、あるいは、(2)概念に直観が与えられる。つまり、構成力が働くとき、そこには、形をもった現象(=イメージ)が無意識のうちに生成されている。このことは、カントが“生成的“構想力と呼ぶことと呼応している。また、このようなアプリオリで非経験的な構想力と、経験的な構想力との違いは明らかだろう。

悟性による判断の特徴は、閉じていた目を開けた時、目を開けた途端直ちに外部にある対象の姿が現れ、それが何であるかを直ちに知ることができるというところに見られる。つまり、アプリオリな純粋悟性概念がアプリオリに(=経験に先立って)働いているという性質にある。

4.まとめ

カントの悟性を知性と解釈することがある。その意味での知性かどうかは不明だが、一般に、知性は感性とは全く別の、互いにつながりのない存在と見做されているよう思われる。

こうした見方は一種の常識のようだが、本稿での議論から明らかなように、カントの感性と悟性は、互いに連携して初めて物事の認識が可能にしている。逆に言えば、感性も悟性も単独では何の機能も持ち得ないということである。

また、カントの哲学はしばしば“意識の哲学”と呼ばれる。これは、デカルトの言明「我考える、故に我あり」によって、意識が哲学の主要なターゲットとして浮かび上がった歴史的経緯において、カントがその延長上に位置づけられていることを意味している。ところが、カントの認識論の基本には、決して意識にのぼる事柄のみで成立するものではなく、むしろ意識下にあって、意識されずに働いてしまう思惟の働きの中にこそ、人間の認識の枠が決まっているという思想がある。

その意味で超越論的図式論は重要で、カントが想像力として考えた構想力=産出的想像力は、構想力のアプリオリな枠組みを与える超越論的図式によって意味が定まる。

本稿を終える前に、前回までに議論された、創造性に関する問題に触れておこう。

問題の一つは、貧しい感性と見る立場から、カントの感性に創造性があるか、否かという事であった。筆者の考えでは、貧しい感性が創造性を持つという主張は、本稿で立ち入って議論したように、感性と言う言葉の使い方に問題があり、厳密言うと「貧しい感性に創造性はない」と言わざるを得ない。むしろ、問題は感性でなく、むしろ創造性は構想力の領域に関係を持ち、その中で検討すべき課題ではなかろうか。

カントは美的感受性やまた天才について、純粋理性批判とは別のところで論じているが、創造性をストレートに取り上げてはいないようだ。ストレートに言ってはいないが、本稿の図式論における“現象に形を与える“といった見方などは、創造性に必須な要件だろう。

なお、本稿の冒頭などで、カントの認識論のアートへの応用などと言ったことに、読者の中には真意を測りかね、筆者が全く誤解しているのではないかと感じている人もいるかも知れない。その問題については、本稿は必要な議論を全く欠いている。それらに関しては、いずれ本稿の展開を試みたい。

長島 知正   2020-09-28

付記:本稿で引いたカントの純粋理性批判は岩波文庫(篠田英雄訳)である。ただし、”先験的”を”超越論的”に変えるなど、今日標準と見做されている文言の修正を加えた。

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― 想像力 と イメージ ―

(1)生活の中の想像力

想像力ときくと、例えば芸術家と呼ばれる特別な力を持つ人たちが、この世にないようなことを思い描く能力と思っていないだろうか。

しかし、想像力をそのようなものに限定して考えるのは間違いだろう。むしろ、想像力は日常生活を送る上でも、欠かせない役を果たしているからである。例えば、仕事の都合で、駅などで待ち合わせしていて、予定の時刻を過ぎても相手が現れない場合も、スマホで確かめれば済むかも知れない。だが、電話しても相手がでなければ、予定時候や場所を間違えたか、相手方に急に何かが起きて来られなくなったのか等、あれこれ想像することになる。また、打ち合わせをどうするか、その場で想像力を働かせて適切な対応を決めるだろう。仕事上想像力を必要とすることは、他にいくらも挙げられる、と言うより、ビジネスの世界で想像力は欠かせないと言えるのではないか。

ここでは、仕事と言えないという意味では不要不急であるが、不可欠な想像力について一つの例を紹介したい。

今から20年ほど前にJRの駅で、視覚障碍者がプラットホームから転落するという事故が起きた。そこに居合わせた韓国人留学生が、電車が接近中にも拘わらず、助けようとしてホームから飛び降りて死亡する、という痛ましい出来事があった。以下の話は、最近新聞に報道された後日談である。

主役は亡くなった韓国人の母親Aさんである。新聞報道によると、事故までのAさんは日本に行った事もなく、歴史認識などでも反日感情を持つありふれた韓国人だった。そんな中で、留学中の息子の突然の死。当時、日本国内は当然のように、Aさんの息子の利他的行為を称賛する声にあふれていた。といっても、周囲の反日感情の中、Aさんが息子の死を受け入れ、飲み込めるようになるのは、一筋縄ではなかったに違いない。

事故後、Aさんは寄せられた見舞金を元にアジアから日本で学ぶ留学生むけ奨学会を作ったり、毎年命日に来日するなど日本人と交流を続けてきた。

ところで、事故から時間が経った現在、Aさんは日韓両国間の政治的問題についても、事故後に会った多くの日本人との触れ合いによって、様々な偏見に捕らわれずに、物事を是々非々で捉えられるようになった自分がいると言う。

また、今年も命日に事故現場に会いに来てくれた日本の年配の婦人達からの人間的な手紙のことばが、とてもありがたいと感謝している。

Aさんをこのように前向きで理知的な気持ちにさせているのは、触れ合いによって、自分と同じ痛みを日本人も感じているという想い(共感)だったのだろうか。

(2)想像力とは

といっても、想像力が目立った働きをするのは、日常生活の外でのことが多い。

科学技術の基本である正しい認識をするという立場からは、暗い夜道で迷ってしまった時、道に落ちている縄を蛇と思い込むように、想像力は誤った知覚をもたらす要因と見做される。

しかし想像力は、精神的に平静な状況では、科学技術分野においても、正しい推論を補う役を果たしている。

言うまでもなく、推論は極めて強力であるけれど、万能とは言えない。つまり、前提に弱みがある。前提が正しければ、演繹的推論によって正しい結論が導かれることは良く知られている。ここで、前提のために仮説を立てる必要がおきる。この仮説をつくるという作業は、基本的に想像するということに依っている。

一方、正しい知識を獲得することとは対照的と見做される芸術・アートの分野では、更に想像力は本質的な地位を占めている。多くの人が、絵画、音楽、詩いずれの分野でも想像力が本質的に働いていると認めるのは、いずれの分野にしても虚構の世界を作り出すためには、想像力が欠かせないと考えるからだろう。

図1.アーティスト

普通、想像力といえば、“像(イメージ)をかたち作る能力”と考えられている。ここで問題になるのは、像(イメージ)を作る、ということをどのように捉えるかである。

以下では、中村雄二郎「感性の覚醒」の議論をもとに、筆者の解釈を補いながら検討していく。

先ず考えられるのは、実在する人やものの写し(コピー)としてのイメージである。

今までに見たり会った経験のある人やもの、例えば、旧知の友達から久しぶりの便りを受けとった時に思い浮かべるイメージである。

こうした実在するものから写しとられたイメージは、外部にあるモノの知覚表象(像)のように、意識によってそこにあるものとして、対象化して眺められる。

このような固定されたモノとしてのイメージを批判したのはサルトルである。

その要点は、イメージは本来、(過去を想起する場合の、)実体化されたモノの像が写しとられるようなものではなく、記憶や知識等何らかの部分的な手がかりをきっかけとして、意識の働きによって現前させられるという事にある。つまり、本来のイメージは、意識を自由に働かせて創りだす、想像的な働きによるもので、そうだからこそ、イメージは生き生きと、動性をもつ訳だ。

この観点からは、モノの写しとして作られるイメージには可能性の世界を拓くことと繋がりがない、と言えよう。

従来から想像力は様々な側面から感心を持たれているが、とりわけ、多くの人の関心を集めるのは、創造性との関係と思われる。しかし、創造性の謎に迫るためには、想像力の本質について把握できなければならないのは、当然だろう。

その意味で注目される問題は、通常は両極に分離して存在している科学とアート・芸術分野において、双方の想像力はどのように繋がっているかである。つまり、一方で対象の正しい認識を補い、他方では可能性の世界を拓くような想像力の間の関係である。

以下では、主に可能性の世界を開くという視点から想像力を議論しよう。

(3)想像力とイメージの動性(ダイナミズム)

先にも触れたことだが、一般に想像力は、像(イメージ)を作る力と理解されることが多い。文字通り、想像力とは像のカタチを心に抱く能力である。

中村によれば、こうした見方は自然だが、二つの問題がある。最初の問題は、像をものコピーと捉えた場合に見られるように、像(イメージ)を固定したものとして捉えやすい事である。この見方と問題点について前節は既に議論した。

二番目の問題は、イメージは単に意識の作用に還元されものではない、ということ。つまり、イメージは想像力により無から作りだされるものではない、ということである。

この問題を考えるため、先ず、想像と知覚の関係を整理しておこう。

両者には、以下の基本的な違いがある。まず、感覚・知覚の作用は部分的なものを積み上げるが、想像では全体を一挙に把握する。

また、先に述べたように、知覚と異なり、想像作用によってイメージを作る場合、直接的対象は必要ない。

従って、想像的イメージを知覚表象と混同することもあり得るが、その一方で、対象からの制約を受けないため、自由に働くことが出来る。

これは、固定化したイメージは日常生活の中で知らないうちに惰性化するという性格と対照的に、想像的イメージは一般に生き生きし、また動性を持つという性格の元にある性質であろう。

中村は、想像的イメージが有するイメージを動的する要因は何処にあるか、という問題に対して、主たる要因は、意識を刺激する“イメージの物質性”にあり、また、想像力は単にイメージをつくるという事以上に、イメージを変形(デフォルメ、deform)する能力に本質があるとした。

以下、この議論の中核にある”イメージの物質性”とは、どういうことかについて検討しよう。

既に述べたことであるが、普通イメージは像を形づくる能力と考えられている。つまり、イメージは形や輪郭のことと考えがちだが、イメージには形(形式)のみならず、質(物質的な質)が伴っていると思われる。このイメージの質は“イメージの物質性”と呼ばれるが、それを中村は、イメージがもちうる“モノとしての厚み”、あるいは、“モノとしての多義性”のことであるとした。

しかしながら、中村の説明に使われる、“モノの厚み“とか”モノの多義性“などの言葉は普通の理系にはない言葉である。

そこで、ここでは、”モノの多義性”、正確には“モノとしての多義性”とはどういうことか、具体的に考える事にしよう。そのための手がかりに、”だまし絵“として知られる多義図形に注目する。

多義図形は地と図をなす互いの反転図形を巧みに組み合わせて作られる。はっきり一時に見えるのは図または地どちらか一種類の図柄だが、角度を少し変えると反転した図柄が浮きだって見える。ルビンの壺(図2)では、顔と壺がそれぞれ地と図になる。このように別々のモノ(像)が同一の場所(の一部)に現われる仕組みを、イメージにおける質、即ち”モノとしての多義性“の意味と考えれば良いのではないか。

エッシャーはさらにリアルな想像的なイメージの例を与えている。ここでは、著作権の都合でその絵を掲載できないが、

図2.ルビンの壺

彼は、それぞれ図と地として空中の鶴と水中の魚が隊列を組み、移動していく様を一つのイメージにまとめている。

もちろん、“モノとしての多義性”の本質が図形で与えられると言っている訳ではない。例えば、水という同じモノであっても、雨の水と川の水には相当違ったイメージがある。そうした水が持つ異なったイメージを、モノとしての多義性と呼んで良いだろう。それらのイメージは人によって違うかも知れないが、それは構わないのである。

“モノとしての厚み“も同様に、何らかの多義性を内包した概念と考えられる。

だまし絵の中に、モノとしての多義性を解剖してみせたのはエッシャーの才能だが、普通の人も、類似したことは日常的に経験している。

普段は日常の暮らしの中で、ごく表面的に見ている天井が舞台になる。普通、天井板の木目模様がどんな配置になっているかなど気に留めていないが、著者はある時、ふっと天井をみると、幾枚かの天井板の木目の模様が繋がり、竜のような予期せぬ図柄が天井に浮き上がってくるといった経験をしたことがある。

この場合、何か偶然的なことをきっかけに、天井のつまらない型どおりの規則的模様(知覚像)から、普段は潜在していて気づかない、生き生きとした竜の模様(イメージ)がたち上がったのである。

似た例として、星座がある。星座のイメージの基本は、一つの星と別の星を結ぶ線の選択によるが、その選択に想像力が働く。星座は想像的イメージの典型のように思えるが、星を線で結ぶ操作が、“イメージの質”に抵触しないかという疑問が残る。その詳細は今後の課題にしたい。

ルビンの壺やエッシャーのだまし絵では、顔と壺あるいは魚と鶴のイメージ間の関係に着目しているが、天井の場合は、規則的な模様が並んだ天井(モノ)と想像的イメージ(竜の模様)の関係という点が違う。と言っても、規則的な天板として見えているモノは認識論的には知覚表象である。

以上でとり上げた例はいずれの場合も、イメージに含まれる質(物質性)、つまり、物質として多義性によって、元の像(イメージ)が変形し、別のイメージが立ち上がったとみることが出来る。これは、想像力の積極的な意味は、単に像を作るというより既存イメージを変形(デフォルメ)する能力にあるという、中村らの主張を支持している。

(4)まとめ:

本稿のこれまで議論を集約すれば、以下のようにまとめられよう:

(1)本稿では主に、イメージの物質性が既成のイメージの形を解体する能力を持つという点を考察した。これは、意識の働きからみて、「固定したイメージ(表象)が(反省的な意識によって)一層形式化する時、概念に近づく」ことに繋ぎ合わせれば、次のようにまとめられる:

イメージは物質性を失い形式化する時、概念に近づく。反対に、イメージの物質性によって、意識は活性化して、イメージを躍動的なものにする。

イメージの動性はこうして現れる。

(2)イメージの動性は、イメージの物質性によってもたらされるが、それは想像力に、既成のイメージの形や形式を解体し、動的に組み替える能力を持たせることになる。

(3)中村は、この想像力の性質(2)が創造的な働きを導くとした。言い換えれば、中村による創造性で重要な点は、イメージを組み替え、新しいイメージをもたらすとしたことである。つまり、創造性は全く何もないところから始まるのではないとしている点にポイントがある。

(4)これは、前回の佐々木による“貧しい感性の創造性”の議論における創造性とは明らかに異なっている。佐々木の創造性では、一切の既成の概念、価値などを否定しているからである。

創造性についての両者の議論には、既成のモノを拒否するという共通点が見いだせるが、主張の諾否に関しては、留保しておきたい。未だ、両者には議論しなければならない事が残っていると思うからだ。

そうした問題の一つに、カントの感性や構想力が本稿や前回の議論にどのような関係にあるのか、という課題がある。次回以降、それらの検討を予定したい。

長島知正   2020-07-09