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カントの感性とその特徴{1}

(参考のため、前回投稿を再掲(一部加筆訂正して再掲))

  • 緒言

人間が考える能力を持つことに疑いをはさむ人は少ない。実際、近代の発展は思考するという能力による、と言える。考えるといっても、とりわけ科学的思考が近年支配的であることは、自然科学以外の分野で、○○科学ということばがつけられることに端的に現れている。だが、そうした人間の考える(思考)能力とはどういうものか、考えること自体を明確にしようとした人は少なかった。

そうした一人にカントがいる。ニュートンが力学の改革に成功したことに対応して、哲学も改革されなければならないと考えていたカントは、自らつくり上げた学を、“認識論におけるコペルニクス的転回”と呼んだ。カントの考えは確かに独創的であるが、複雑な議論を表現するため幾多の独特な、聞きなれないことば(概念)の山が作られた。そのため、書は大部になり、全体の把握は容易でなく、一時は解読の専門家が必要とされたのは、わが国だけではないようだ。だがカントは、今日も生活の根底にあるように見える西欧と異なり、我が国ではデカンショ節が廃れるとともに影響力を失い、特に、戦後は復興のため技術立国が叫ばれ、カントの観念哲学の命脈は事実上絶たれた。

しかし、バブル経済の崩壊を経験したわが国では、崩壊後の不景気が一時的なものではないことにようやく気付き始めたらしい。現在、“持続可能性”ということばがインターネットの勢いにのって急激に広まっている。経済成長という信仰にとって代わる社会原理の交代もあながち夢ではないかもしれない、と思わせる。(このような地盤的変化の時に求められるのは、新しい科学技術を生みだす創造性である。だが、そうした創造性はどんな思考によっているのだろう。)

純粋理性批判の書名から、カントは理性を説く人というイメージが大変強い。だから、対極にある感性が問題にされる局面では、当然のように無視されてきた。しかし、美学を除いてと付け加えなければならない。つまり、もっぱら美を哲学的対象とする美学は現実社会においては切り捨てられて来たとは言え、カントはそこでも無視できない役を占めているようだ(*)。

本稿では、感性に焦点をあて、カントの感性の考えに立ち入ってみる。そのため、カントの純粋理性批判におけるカントの感性の定義と共に、その特徴や文脈的な意味について考察する。そうした考察から、感性について現在何が求められているかを検討したい。

  • カントの感性

純粋理性批判は、本稿付録(*)の構成に示したように、感性論から始まる(カントは自分の感性論を超越論的感性論と呼ぶ。“超越論的”については、後に説明する)。感性論の緒言にはカントの理性批判のよって立つ前提の説明があるが、その中で、カントは彼の感性の定義を与えている。カントの書は難解でなり、感性に関心をもつ人でも、カントの感性論を実際読んだ人は少ないようだ。だが現在、彼の立場を認める人は多くはないだろうが、それは別にして、冒頭の感性の説明はすっきり書かれている。お手軽な解説書を見てカントを敬して遠ざけた人も、違った印象を持つかもしれない。

図1.科学の限界はどこに?

以下著書を引きながら、カントの感性論を少しみることにしよう。(ここでは、入手が容易な岩波文庫の純粋理性批判(上)、篠田英雄訳)を元にしたが、古い言葉遣いなどは変えてある。岩波文庫の訳は、何故か句読点の使い方がおかしいなど、初歩的不備が目立つのは惜しい。)

「認識がどんな仕方で、またどんな手段によって対象に関係するにしても、認識が直接対象と関係するための方法、また一切の(あらゆる)思惟が手段として求める方法は直観(Anschauung)である。しかし、直観は、対象が我々に与えられて初めて生じるモノである。

ところで、対象が我々に与えられるということは、少なくとも我々人間にとって は、対象がある仕方で心意識(Gemuet)を触発する(affizieren)ことによってのみ可能である。我々が対象から触発される仕方によって表象を受け取る能力(受容性)を感性(Sinnlichkeit)という。」

「だから、対象は、感性を介して我々に与えられ、また感性のみが我々に直観を給す  るのである。 (中略) また、我々が、対象が我々に触れている時、対象が表象能力に与える作用によって生じた結果は、感覚(Empfindung)である。」

これが、カントによる感性および感覚の説明である。

結局、カントがここで言っているのは、我々が経験し、認識する対象は、感性を介して直観によって与えられる、ということである。少しフレーズを足しながら、感性に関わる点を整理しておこう。

われわれの経験では、経験の対象を認識するためには、まず対象が与えられなければならない。ここで、我々の精神が対象と直接関係する方法が直観である。直観において、我々に対象が与えられるとは、我々の意識が対象によって触発され、その時生じる表象を受け取ることである。カントは、我々の精神が表象を受け入れる(受容的な)能力を“感性”と定義している。

また、上の感覚の説明によれば、感覚は、感性と同義語に近い。感性においては総体的にとらえられる対象との関係が感覚ではより具体的になっていると考えて良いだろう。つまり、対象の姿が見える、音が聞こえるといった事だが、注意すべきは、こうした感覚の経験的側面が明かされている点である。

ところで、詳しく述べる余裕はないけれど、カントの認識論では、上記の段落は認識の前段に位置している。つまり、「感性的な直観によって与えられる表象や感覚は、認識の対象としての素材で、それ自体では、認識は完結しない。言い換えれば、認識は、直観で与えられた対象の素材が、概念によって捉えられて初めて可能になる。この概念を与えるのが能動的に働く悟性(Verstand:知性)である。対象は、直観と悟性の協調によって初めて考えられるのである。また、客観的判断に悟性は不可欠である。

ところでカントの認識論には、経験や認識に必ずそれを可能にする枠組み(形式)がある、というところに大きな特徴がある。どういうことか。

ここでは、経験の対象が感性的な直観によって与えられる場面を考えて見る。

例えば、私のそとのあちこちに、赤い色や青い色が見える、といった感覚が生じたとしよう。

この例にある場面が把握できる場合、「あちら」、「こちら」、「私」と「私のそと」とが空間的に区別され、空間の別な場所に関係付けられていることが前提にあることに注意しよう。

言い換えると、異なる場所に違った色が見えるという経験が認識可能になるには、予め空間という表象が先行してあることが必要なのである。これをカントはアプリオリな空間形式と呼び、空間の表象はアプリオリに(経験以前に)与えられ、経験的なものではない、と考える。同様に、音の経験を可能にするために、時間についても、アプリオリな時間形式を要請した。

カントがこうしたアプリオリな時間・空間形式を重視するのは、その形式によって始めて、私たちに対象が経験可能な事象になるからである。“現象”とはこのような経験可能な事象である。反対に、経験を超えた事物<もの自体>は、人間には分かりえないものとして、区別されるのである。

図2.人間には悟性があるんだって?

  • 感性の特徴: 文脈的意味(1)

大まかにいうと、感性的直観による対象を概念によって捉え、さらにそうした概念を組み合わせて推論する能力が理性である。“純粋理性批判”において、カントは理性を対象として、理性批判した、つまり人間理性の限界を検討した。

しかし、我々の目標は、理性ではなく感性である。カントの感性は前節のように定義されたが、以下では、感性の特徴や意味を考える。一般に、ことばの意味は文脈によって、あらたに派生するものであり、文脈的な意味から、従来の感性では何が欠けているかが見えてくる可能性があるからである。

以下では、取りあえず三つの視点から、感性の定義に基づいて、感性の特徴や派生する意味をおおまかにおさえ、検討する。

  • まず、全般的背景を知るため、国語辞典(ここでは、広辞苑)に見られる感性の意味を取りあげておこう。広辞苑にある感性の第一の意味は、「外界の刺激に応じて感覚・知覚を生ずる感覚器官の感受性」である。

この感性の意味は、生きものに自然科学的見方を適用した結果が反映され、最近の教育を受けた人が普通受け入れているものでないだろうか。「対象に触発され、私の中に生じる表象ないし、表象を受け入れる受動的能力」というカントの感性の定義と比較してみると、対照的な見方をしている。つまり、感覚・知覚は外界からある具体的な刺激から生じる点がカントの立場と違う上、感性の意味を仮に、「対象から受ける印象(表象)を感じる能力」と理解しても、それは感覚器の感受性であるところが大きく異なる。

さらに、“感受性”と言う言葉にも問題がある。感受性という語は一般的には、感じる能力とか感じ方となるだろうが、感受性と言う語の使用は、一意的でないからだ。その問題点は後で再び取り上げる。

2)悟性との関係から感性を考える場合、「感性は(感性的)直観が与える悟性の素材」という意味になる。

ここでは、この文脈的意味に少しだけ立ち入ろう。

カントによれば、人間の認識は、感性および悟性の協調的な関係という枠組みで成り立っている。そして、この意味での感性に関して、感性的直観なき認識は空虚だと言う。つまり、感性による直観によって、悟性に働く素材が与えられなければ、認識には中身が無いということである。これは当たり前のようだが、単なる観念論とは異なるというカントの立場を主張し、アプリオリな形式を満たす感性には、その根拠を果たす役割が与えられている。

上で、認識するために「感性と悟性が協調する」ことが必要といったが、そこで大切なのは、感性と悟性は互いに独立したものではないということが前提されている点である。

3)現象と<もの自体>

2)では、感性を悟性との関係から考えたが、その関係の延長上に、非常に強い響きをもつ「もの自体は分からない(認識できない)」という有名な言明が現れる。

簡単に上で説明したように、カントは現象と<もの自体>を区別した。その区別は感性とどんな関係を持つのだろうか。また、自然科学の方法や物質の究極的な研究にどう関係しているのだろう。そうした問題についても考えてみたいが、かなり紙幅が必要なため、次回議論することにしよう。

付録

(*)普通、カントの美学という時、カントの著書「判断力批判」の内容を指している。本稿の「純粋理性批判」の感性(論)はそれ以前に別の主旨で書かれている。そのことが感性の議論を複雑にする原因の一つになっている。

(**)純粋理性批判の構成(概略)

純粋理性批判の岩波文庫版(篠田訳)では、transzendentalは “先験的“と訳されているが、近年は”超越的”(transzendent)という語との区別のため、”超越論的“と言う訳語が一般的なっている。下記でもそれに修正した。

なお、カントでは、超越論的は可能的な経験に、また超越的は経験不可能な場合に、互いに対立的なことばとして使われる。

また、Verstandは知性(Intellect)の意味であるが、カントに限って悟性という語を充てる習慣のようだ。ここでもその習慣に従った。

Ⅰ超越論的原理論

  第一部門 超越論的感性論

     緒言

  • 空間について
  • 時間について

  第二部門 超越論的論理学

     緒言

第一部超越論的分析

  • 概念の分析論
  • 原則の分析論

第二部超越論的弁証法

  第一篇純粋理性の概念について

  第二篇純粋理性の弁証法的推理について

Ⅱ超越論的方法論

長島 知正  2019-11-29