カントの感性とその特徴{2}

3).現象と<もの自体>:

・緒言

“感性”は日常よく使われる言葉である。だが、その感性の意味が示されることはほとんどない。とりわけ困るのは、いわゆる識者と言われる人もそうであることだ。そのため、感性が担う役割は拡散して本質はぼやけ、近代的理性に代わるモノという一部にある期待の高まりとは裏腹に、皮肉にも、次第に感性ということばの斬新な響きもかすんでしまった。しかし、それは悪いばかりではない。むしろ、わが国近代の来し方を見直す良い機会と言えるからだ。

前回、“純粋理性批判“におけるカントの感性の定義と共に、感性の特徴や文脈的な意味を考察した。前回に続いて、感性の特徴や意味を検討する。そのため、前回の2)では、“現象”を構成している感性と悟性の関係に着目したが、本稿では、現象と<もの自体>の区別に注目して感性の意味を考える。そのためには、カントが<もの自体>を考えるに至った経緯を知るため、多少なりとも超越論的観念というカントの基本的考え方に立ち入らなければならない。

まず、前回の復習を兼ねて、基本的な用語を補いながら議論を進めよう。

カントは、我々が(外にある)モノを認識し経験できるために、対象が我々の心を触発し、対象についての表象を直観によって生み出す感性の働きが不可欠だ、と言った。

だが、対象を認識出来るためには更に、そうした感性的直観によって得られた(対象についての)多様な素材をカテゴリーにあてはめる悟性が協同して働くことが必要であるとした。つまり、モノ(対象)を認識し経験できるためには、感性を介した直観による表象を私のものとすることが欠かせないのである。

・<もの自体>

ところで上の議論には、「対象を認識し経験できる」とあるが、“対象を認識する”というのは良いとしても、“対象を経験できる”とは何のこと? と思った人がいるのではないか。つまり、こころの働きとして対象を認識する仕組みが議論されることは当然であっても、「対象を経験できる」と、ワザワザ普通言わない使い方をするのはなぜ、と。

カントが「対象が経験される」という時、それは、当事者(主体)によってあたかも可能になったり、ならなかったりすることのように聞こえる。

実際、「すべての認識は経験と共に始まる」と言うように、経験との関係から認識を捉えることはカントの認識論のカギである。とは言え、すぐ後で「だが、すべての認識が経験から生まれるのではない」と付け加えて、感性に、アプリオリな形式(条件)、つまり経験に先立つ形式として、時間、空間を導入した。この感性のアプリオリな形式は経験から導かれたモノではなく、逆にそれによって、経験を可能にしている。

カントによれば、感性的直観を素材とし、それをアプリオリな条件であるカテゴリーに割り当てる悟性の働きを要請することによって、対象(による直観的表象)を認識し経験できる。そのような対象を“現象”と呼んだ。現象は、私たちの目に見える姿のように五感で実際(現)に感覚されるアラワレ(象)である。それに対し、現象の背後にあるが、実際には感覚されず、従って認識も経験もされない対象を<もの自体>と名付けたのである。

奇妙に感じるが、純粋理性批判に<もの自体>についての明示的な定義は見当たらない。常識的に言えば、<もの自体>とは、認識する主体とは関わりなく、独立して、そのもののありのままの姿が現れたもの、となろう。カントが「<モノ自体>は分からない(認識できない)」と言う時、その基本的な意味は、「そのような認識主体と独立な対象(=<もの自体>)については、われわれ(経験する主観)は知ることが出来ない」ということである。

<もの自体>にはモノの本質という意味を含ませる事もある。つまり、五感を介して感じられるモノの姿“現象“は見かけ上であるのに対して、<もの自体>は(外にある)モノその物、つまり真実に対応している、と。ここには、現象が見かけの仮の姿を現しているのに対し、<もの自体>には、そうした現象の根拠、あるいは原因を与えると言うプラトン由来の見方(イデア)の影響がある。後に出る理念(イデー)もそこに繋がっている。

以下、現象と<もの自体>の区別に至った、カントの超越論的感性論とは何か、その入口を覗くことにする。ここでは特に、超越論的観念論というカントの立場について、簡単なイメージを基本用語を通して考える。

・超越論的ということ

カントを理解する際、問題になる用語は非常に多いが、超越的とか超越論的と言う時の、「超越」ということばは特別だろう。普通のことばとして、超越とは「超える」という意味であるが、カントの場合を含め哲学的文脈では普通の意味とは異なる使い方をする。まずそこに注目しよう。

子供の時から科学や合理的なモノの考え方に親しんだ人には、「超越」って何?となるのは当然である。何故か。科学的な考え方とは、経験できないような、ありもしないモノについて考えても無駄で、意味がない事だ、と思ってはいないだろうか。この言い方には説明不足があるが、的外れでもないのではないか。こうした考え方が自然に受け入れられるようになった大きな理由として、科学革命によって科学が宗教にとって代わったと見做なす近現代の思想的な影響があると思われる。

その結果、私たちは今日、神や霊魂について日常ほとんど考えなくなった生活習慣の変化がある。

当然ながら、神は我々が直接経験することができない存在、つまり我々の経験を超えた、超越した存在である。

同様に、霊魂の不死性についても、我々は死後を直接確かめることが出きない対象である。このような超越的な世界の問題については、我々は無いがごとく、考えないことを当然とするようになってきた。とは言え、それをどのように正当化しているのだろう。

カントの<もの自体>は上述した事と平行して捉えられる。

つまり、われわれが経験できる現象は感覚される対象であるのに対し、<もの自体>とは経験不可能な、超越的な(=超感性的な)対象(モノ)である。

図1.超越的存在(河童)

ことばの上から見る時、超越的とは、経験を超えるという意味で経験の外部にある認識不可能なという意味に対し、超越論的は、人間が経験できる、つまり“経験可能な“に対応していて注意が必要である。その上、ややこしいが、超越と言うことばに、“経験を超える、つまり経験の外部“という意味の他に、そのような経験の成り立ち自体を考えると言う意味を含ませる使い方もある。

実際、超越論的感性論(観念論)は、後者、つまり、人間の経験の成り立ち自体を考えるという意味で使われている。

・感性の文脈的意味:認識を超える思惟

カントは経験を超える例として、世界、神、自由、魂の不滅性といった伝統的な形而上学の対象を挙げている。これら超越的な存在は<もの自体>と同様、経験を超え、認識できないが思惟することは出来る存在である。カントはこうした世界を“可想界”と呼び、経験可能な“現象界”と分けた。人は経験可能な現象を感性と悟性の働きによって認識出来るけれど、経験できない可想界にある対象に対して悟性は当然機能しない。にも拘わらず、経験不可能な対象に対しても人は様々ことを考える。実際、カッパとか一角獣のようなものを考えたりする。理性は、このような経験できず、認識できない対象に対しても働くように見える。この点で、理性は悟性(狭い意味の知性)と違うことを明らかにしたのはカントの功績と言って良いのではないか。以下は、その一端である。

理性とは、何よりも推論する機能である。また、最も単純な判断にも単純な推論は見られる。そのため、悟性に戻って始めよう。

悟性は、感性的直観によって受け容れた対象の表象を素材として、それをカテゴリーに分別する。カントによれば、悟性の働きの中心にあるのがカテゴリーで、それは、アプリオリな形式で思惟の根本的な区分を与える。

つまり、悟性は、感性による多様な直観をまとめ、概念的な判断に変換するが、その概念的判断は基本のアプリオリな枠組み(形式)を持ち、それがカテゴリーである。悟性のアプリオリな形式であるカテゴリーの働きによって、対象の経験は個人的な経験から普遍性のある経験にになる。

カントは判断表から、量、質、関係、様相 という4項目のカテゴリーを導いている。さらに、各カテゴリーは3分岐を伴い、例えば、量のカテゴリーには、単一性(一つの)、数多性(幾つかの)、総体性(すべての) という量に関わるカテゴリーが割り当てられている。それらは判断表では、単一判断(このリンゴは甘い)、特殊判断(幾つかのリンゴは酸っぱい)、総体判断(すべてのリンゴは丸い)にそれぞれ対応している。

ところで、カテゴリーは良くカタログにたとえられる。家具カタログには様々な家具が、机などいくつかの項目に従ってまとめられ、分別されている。カタログによって、目の前にあるモノが、項目に従って、何であるか、またどういう状態にあるかが分かる。

家具カタログには机の他、椅子を始め様々な家具が含まれている。机と言う項目にまとめる際、机を他の家具から分別するため、天板がある、足を持つ、人が利用できるような重量、寸法を持つ等の、経験的に確かめられる規則(概念)が使われる。

一方、そうした様々な規則を対象として、規則同士を組み合わせあるいは繰り返す等の操作によって、より高次の推測する方法が考えられた。これが人間の“理性”と呼ばれる。

例えば、ある現象に対し、推論によってその原因を探る。次にその原因を結果として、それを生む原因を探る、という結果―>原因=結果―>原因=結果―> の遡行の系列から、現象についての、より一般的な原因を知ることが出来る。特に、自然科学はこの機能を極めて有効につかって発展してきた。理科系の人に圧倒的に見られる理性対する全幅の信頼は、そこから来ているように思われる。

上の遡行は、「もし、、、なら、、、、である」と言う条件付きの仮言命題の系列によって、原因を次々に遡る系列と見做せる。

ところが、人間の理性は、こうした遡行を限りなく続け、最終的に全く条件が付かない定言命題を得ようとする。神、自由などはこうして現れた“理念=理性概念”である。カントは、これらの理念について、アンチノミー(二律背反)、つまり正命題(テーゼ)とその反対の反命題(アンチテーゼ)双方が共に成立することを明らかにした。これは、命題の真偽が決着させられない理性の限界を示している。

図2.座禅:理性の限界を経験する?

ところで、理性の限界といったが、その理性の限界に感性は関係していないのだろうか。

理性概念としてカントが挙げた自由を考えて見よう。

感性の定義に立ち戻ると、感性は外からの物質的刺激を受ける(受容する)ことによって、認識する主体に認識の素材が与えられる。こうした認識主体の感性は受け身であり、素材を悟性に提供する以外に、目立った機能はなさそうだ。だが何も意味はないのだろうか。考えられる一つは、認識主体は外にある世界に接し、絶え間なく外から物質にさらされていることである。つまり、人の経験や認識は真空中で行われる訳ではなく、対象認識の際にも絶えず置かれた環境から影響をうけているはずだ。

言い換えれば、人間に全くの自由と言うものは現実にはないという事になる。こうした感性を介した制約を悟性や理性は受けざるを得ない。悟性は経験によって誤りを検証可能だが、経験を伴わない理性、特に理念にとっては困難に繋がる。

上述したような外界の刺激は、従来から認識の雑音(ノイズ)として、感性のネガティブな性質を生む原因と見做されてきたと考えることも可能かも知れない。しかし、視点を換えてみると、それは自由のような理念(理性概念)に対する制約と見做すことが出来る。つまり、感性の受容性(受動性)は理念の限界をもたらしているのである。

4).まとめに代えて:

○上で述べた理性の限界はそれ自身大きい、とりわけ理科系には大きい問題であるが、ここでは単に、感性と理性は互いに関連した概念であるということを指摘しておきたい。人間の感性は受動的に働き、外から絶え間なく刺激を受けている。こうした感性の受動性は自由の理念の限界をもたらす、と言った。それはまた、感性と理性は互いに独立しているという従来からの捉え方に根拠はなく、互いに関連しあって働いていることを意味している。

○「<もの自体は>分からない」というカントの文言と素粒子論などの最新の物理学を対比させることについて簡単に触れておこう。

人間に知覚され、意識にのぼってくる対象を“現象”とするカントの認識論の前提と素朴実在論に立つ物理学は対立的である。ここで素朴実在論とは、(眼前にある)世界はありのまま直接捉えられるという立場だからである。最近は、表立った争いは余り見られない、というより、圧倒的自然科学優位な現在とは言え、両者には深い論理的溝がある。その間を架橋することは大きな課題と考えられるが、以下は、カントの立場に沿った一つの考察である。

カントは全ての認識し経験可能な対象を現象と呼び、自然科学で対象となることは全て現象であると考えていた。そうでない対象は<もの自体>として、人の意識に関わらない認識、経験の外部にあるものとした。その意味で、<もの自体>は知りえない、という内容は明確である。

だが、認識し経験可能な対象は知覚できなければならないから、知覚を文字通りの感覚(五感)によるとするかどうか、知覚の具体的範囲をどこまでにするかで、現象を物自体から分ける範囲が変わってくることになる。つまり、肉眼で見えることや五感で感じる事にすれば、明らかに現象は非常に限定されるだろう。肉眼ではなく望遠鏡のような観測手段を使って、見えることも知覚可能とすれば、現象の範囲は拡大する。この意味で常識的には、最新の計測装置を使って得られる素粒子実験の結果なども現象の範囲に入ると見做すのが良さそうに思われる。とわ言え、ここには、物理学の抱える未解決の難問、量子力学の観測問題があり、現象と言って簡単に片付けられる話ではない、という留保が必要である。

長島 知正  2020-02-17

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