イメージ

― 想像力 と イメージ ―

(1)生活の中の想像力

想像力ときくと、例えば芸術家と呼ばれる特別な力を持つ人たちが、この世にないようなことを思い描く能力と思っていないだろうか。

しかし、想像力をそのようなものに限定して考えるのは間違いだろう。むしろ、想像力は日常生活を送る上でも、欠かせない役を果たしているからである。例えば、仕事の都合で、駅などで待ち合わせしていて、予定の時刻を過ぎても相手が現れない場合も、スマホで確かめれば済むかも知れない。だが、電話しても相手がでなければ、予定時候や場所を間違えたか、相手方に急に何かが起きて来られなくなったのか等、あれこれ想像することになる。また、打ち合わせをどうするか、その場で想像力を働かせて適切な対応を決めるだろう。仕事上想像力を必要とすることは、他にいくらも挙げられる、と言うより、ビジネスの世界で想像力は欠かせないと言えるのではないか。

ここでは、仕事と言えないという意味では不要不急であるが、不可欠な想像力について一つの例を紹介したい。

今から20年ほど前にJRの駅で、視覚障碍者がプラットホームから転落するという事故が起きた。そこに居合わせた韓国人留学生が、電車が接近中にも拘わらず、助けようとしてホームから飛び降りて死亡する、という痛ましい出来事があった。以下の話は、最近新聞に報道された後日談である。

主役は亡くなった韓国人の母親Aさんである。新聞報道によると、事故までのAさんは日本に行った事もなく、歴史認識などでも反日感情を持つありふれた韓国人だった。そんな中で、留学中の息子の突然の死。当時、日本国内は当然のように、Aさんの息子の利他的行為を称賛する声にあふれていた。といっても、周囲の反日感情の中、Aさんが息子の死を受け入れ、飲み込めるようになるのは、一筋縄ではなかったに違いない。

事故後、Aさんは寄せられた見舞金を元にアジアから日本で学ぶ留学生むけ奨学会を作ったり、毎年命日に来日するなど日本人と交流を続けてきた。

ところで、事故から時間が経った現在、Aさんは日韓両国間の政治的問題についても、事故後に会った多くの日本人との触れ合いによって、様々な偏見に捕らわれずに、物事を是々非々で捉えられるようになった自分がいると言う。

また、今年も命日に事故現場に会いに来てくれた日本の年配の婦人達からの人間的な手紙のことばが、とてもありがたいと感謝している。

Aさんをこのように前向きで理知的な気持ちにさせているのは、触れ合いによって、自分と同じ痛みを日本人も感じているという想い(共感)だったのだろうか。

(2)想像力とは

といっても、想像力が目立った働きをするのは、日常生活の外でのことが多い。

科学技術の基本である正しい認識をするという立場からは、暗い夜道で迷ってしまった時、道に落ちている縄を蛇と思い込むように、想像力は誤った知覚をもたらす要因と見做される。

しかし想像力は、精神的に平静な状況では、科学技術分野においても、正しい推論を補う役を果たしている。

言うまでもなく、推論は極めて強力であるけれど、万能とは言えない。つまり、前提に弱みがある。前提が正しければ、演繹的推論によって正しい結論が導かれることは良く知られている。ここで、前提のために仮説を立てる必要がおきる。この仮説をつくるという作業は、基本的に想像するということに依っている。

一方、正しい知識を獲得することとは対照的と見做される芸術・アートの分野では、更に想像力は本質的な地位を占めている。多くの人が、絵画、音楽、詩いずれの分野でも想像力が本質的に働いていると認めるのは、いずれの分野にしても虚構の世界を作り出すためには、想像力が欠かせないと考えるからだろう。

図1.アーティスト

普通、想像力といえば、“像(イメージ)をかたち作る能力”と考えられている。ここで問題になるのは、像(イメージ)を作る、ということをどのように捉えるかである。

以下では、中村雄二郎「感性の覚醒」の議論をもとに、筆者の解釈を補いながら検討していく。

先ず考えられるのは、実在する人やものの写し(コピー)としてのイメージである。

今までに見たり会った経験のある人やもの、例えば、旧知の友達から久しぶりの便りを受けとった時に思い浮かべるイメージである。

こうした実在するものから写しとられたイメージは、外部にあるモノの知覚表象(像)のように、意識によってそこにあるものとして、対象化して眺められる。

このような固定されたモノとしてのイメージを批判したのはサルトルである。

その要点は、イメージは本来、(過去を想起する場合の、)実体化されたモノの像が写しとられるようなものではなく、記憶や知識等何らかの部分的な手がかりをきっかけとして、意識の働きによって現前させられるという事にある。つまり、本来のイメージは、意識を自由に働かせて創りだす、想像的な働きによるもので、そうだからこそ、イメージは生き生きと、動性をもつ訳だ。

この観点からは、モノの写しとして作られるイメージには可能性の世界を拓くことと繋がりがない、と言えよう。

従来から想像力は様々な側面から感心を持たれているが、とりわけ、多くの人の関心を集めるのは、創造性との関係と思われる。しかし、創造性の謎に迫るためには、想像力の本質について把握できなければならないのは、当然だろう。

その意味で注目される問題は、通常は両極に分離して存在している科学とアート・芸術分野において、双方の想像力はどのように繋がっているかである。つまり、一方で対象の正しい認識を補い、他方では可能性の世界を拓くような想像力の間の関係である。

以下では、主に可能性の世界を開くという視点から想像力を議論しよう。

(3)想像力とイメージの動性(ダイナミズム)

先にも触れたことだが、一般に想像力は、像(イメージ)を作る力と理解されることが多い。文字通り、想像力とは像のカタチを心に抱く能力である。

中村によれば、こうした見方は自然だが、二つの問題がある。最初の問題は、像をものコピーと捉えた場合に見られるように、像(イメージ)を固定したものとして捉えやすい事である。この見方と問題点について前節は既に議論した。

二番目の問題は、イメージは単に意識の作用に還元されものではない、ということ。つまり、イメージは想像力により無から作りだされるものではない、ということである。

この問題を考えるため、先ず、想像と知覚の関係を整理しておこう。

両者には、以下の基本的な違いがある。まず、感覚・知覚の作用は部分的なものを積み上げるが、想像では全体を一挙に把握する。

また、先に述べたように、知覚と異なり、想像作用によってイメージを作る場合、直接的対象は必要ない。

従って、想像的イメージを知覚表象と混同することもあり得るが、その一方で、対象からの制約を受けないため、自由に働くことが出来る。

これは、固定化したイメージは日常生活の中で知らないうちに惰性化するという性格と対照的に、想像的イメージは一般に生き生きし、また動性を持つという性格の元にある性質であろう。

中村は、想像的イメージが有するイメージを動的する要因は何処にあるか、という問題に対して、主たる要因は、意識を刺激する“イメージの物質性”にあり、また、想像力は単にイメージをつくるという事以上に、イメージを変形(デフォルメ、deform)する能力に本質があるとした。

以下、この議論の中核にある”イメージの物質性”とは、どういうことかについて検討しよう。

既に述べたことであるが、普通イメージは像を形づくる能力と考えられている。つまり、イメージは形や輪郭のことと考えがちだが、イメージには形(形式)のみならず、質(物質的な質)が伴っていると思われる。このイメージの質は“イメージの物質性”と呼ばれるが、それを中村は、イメージがもちうる“モノとしての厚み”、あるいは、“モノとしての多義性”のことであるとした。

しかしながら、中村の説明に使われる、“モノの厚み“とか”モノの多義性“などの言葉は普通の理系にはない言葉である。

そこで、ここでは、”モノの多義性”、正確には“モノとしての多義性”とはどういうことか、具体的に考える事にしよう。そのための手がかりに、”だまし絵“として知られる多義図形に注目する。

多義図形は地と図をなす互いの反転図形を巧みに組み合わせて作られる。はっきり一時に見えるのは図または地どちらか一種類の図柄だが、角度を少し変えると反転した図柄が浮きだって見える。ルビンの壺(図2)では、顔と壺がそれぞれ地と図になる。このように別々のモノ(像)が同一の場所(の一部)に現われる仕組みを、イメージにおける質、即ち”モノとしての多義性“の意味と考えれば良いのではないか。

エッシャーはさらにリアルな想像的なイメージの例を与えている。ここでは、著作権の都合でその絵を掲載できないが、

図2.ルビンの壺

彼は、それぞれ図と地として空中の鶴と水中の魚が隊列を組み、移動していく様を一つのイメージにまとめている。

もちろん、“モノとしての多義性”の本質が図形で与えられると言っている訳ではない。例えば、水という同じモノであっても、雨の水と川の水には相当違ったイメージがある。そうした水が持つ異なったイメージを、モノとしての多義性と呼んで良いだろう。それらのイメージは人によって違うかも知れないが、それは構わないのである。

“モノとしての厚み“も同様に、何らかの多義性を内包した概念と考えられる。

だまし絵の中に、モノとしての多義性を解剖してみせたのはエッシャーの才能だが、普通の人も、類似したことは日常的に経験している。

普段は日常の暮らしの中で、ごく表面的に見ている天井が舞台になる。普通、天井板の木目模様がどんな配置になっているかなど気に留めていないが、著者はある時、ふっと天井をみると、幾枚かの天井板の木目の模様が繋がり、竜のような予期せぬ図柄が天井に浮き上がってくるといった経験をしたことがある。

この場合、何か偶然的なことをきっかけに、天井のつまらない型どおりの規則的模様(知覚像)から、普段は潜在していて気づかない、生き生きとした竜の模様(イメージ)がたち上がったのである。

似た例として、星座がある。星座のイメージの基本は、一つの星と別の星を結ぶ線の選択によるが、その選択に想像力が働く。星座は想像的イメージの典型のように思えるが、星を線で結ぶ操作が、“イメージの質”に抵触しないかという疑問が残る。その詳細は今後の課題にしたい。

ルビンの壺やエッシャーのだまし絵では、顔と壺あるいは魚と鶴のイメージ間の関係に着目しているが、天井の場合は、規則的な模様が並んだ天井(モノ)と想像的イメージ(竜の模様)の関係という点が違う。と言っても、規則的な天板として見えているモノは認識論的には知覚表象である。

以上でとり上げた例はいずれの場合も、イメージに含まれる質(物質性)、つまり、物質として多義性によって、元の像(イメージ)が変形し、別のイメージが立ち上がったとみることが出来る。これは、想像力の積極的な意味は、単に像を作るというより既存イメージを変形(デフォルメ)する能力にあるという、中村らの主張を支持している。

(4)まとめ:

本稿のこれまで議論を集約すれば、以下のようにまとめられよう:

(1)本稿では主に、イメージの物質性が既成のイメージの形を解体する能力を持つという点を考察した。これは、意識の働きからみて、「固定したイメージ(表象)が(反省的な意識によって)一層形式化する時、概念に近づく」ことに繋ぎ合わせれば、次のようにまとめられる:

イメージは物質性を失い形式化する時、概念に近づく。反対に、イメージの物質性によって、意識は活性化して、イメージを躍動的なものにする。

イメージの動性はこうして現れる。

(2)イメージの動性は、イメージの物質性によってもたらされるが、それは想像力に、既成のイメージの形や形式を解体し、動的に組み替える能力を持たせることになる。

(3)中村は、この想像力の性質(2)が創造的な働きを導くとした。言い換えれば、中村による創造性で重要な点は、イメージを組み替え、新しいイメージをもたらすとしたことである。つまり、創造性は全く何もないところから始まるのではないとしている点にポイントがある。

(4)これは、前回の佐々木による“貧しい感性の創造性”の議論における創造性とは明らかに異なっている。佐々木の創造性では、一切の既成の概念、価値などを否定しているからである。

創造性についての両者の議論には、既成のモノを拒否するという共通点が見いだせるが、主張の諾否に関しては、留保しておきたい。未だ、両者には議論しなければならない事が残っていると思うからだ。

そうした問題の一つに、カントの感性や構想力が本稿や前回の議論にどのような関係にあるのか、という課題がある。次回以降、それらの検討を予定したい。

長島知正   2020-07-09

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