-感性言語処理は実現できるか-
長島 知正
前回、ソシュールの「講義」の基礎にある言語記号について手短に紹介した。しかし、「講義」でも、長い付録を加え音声についてのしっかりした理解を求めている。そこで今回は、音声と音素の違いに注目して、ソシュールの考えを継承した構造言語学がどんな成果が挙げたのか、感触を探ることにしたい。その後、本稿の主題に関わる範囲で、ソシュール以降の言語理論の流れを概観し、それを下敷きにして、本稿の今後の予定について簡単に述べる。
7.音韻論の基礎:音声と音素
既に述べたように、ソシュールはパロールではなく、話し手と聞き手の間で語の意味を共有する仕組みとしてラングを導入し、その機能を言語記号に担わせようとした。というのも、実際の音声は複雑極まりないことをソシュールは良く分かっていたからだろう。 図4-1に例示した測定サンプルデータからも想像されるように、音声は一般に単純な周期を持たず、強さも一定しないなど、物理的性質を記述することが困難なほど複雑である。
図4-1. 音声の時系列データ(赤ちゃんの泣き声)
そればかりか、大きな個人差やまた同じ話者であっても発話の条件 (環境)に依存して、ことばは非常に複雑な差異を示すため、何かまとまった把握をしようとしても大きな困難がある。
人の音声、例えば、最も単純な「あ」という音を考えても、男女の別や年齢によって、その音の高さを表す周波数や音の大きさ(エネルギー)などの物理的指標は一定ではなく大きく異なっている。誰もが、同じ「あ」の音であると認められなければ、話し手と聞き手でも同じ意味が伝達されない。逆に云えば、私たちは、物理的には相当異なった様々な音に対して、脳の中で一つの「あ」という声と認識しているのである。こうした日常生活を支える基盤のようなところ(知覚)にも素朴な認識を超えた抽象性 ―異なる多くの事物をまとめて一つのものと見なすー があることを見失いがちである。しかし、こうした私たちの日常の些細な出来事の中に、ソシュールが自然科学と一線を画す言語理論を構想した背景、つまり、自然的に生起する物理現象の把握とは異なった認識が必要であるという見方が隠れていることを見落とさないようにしたい。
従って、ことばの伝達機能を実現するためには、音声に何らかの制約を加えなければ極めて難しいことは、今日でも変わっていない。
以下では、実際の音声とは区別して考えられる“音素”に着目して、ソシュールを継承した構造言語学の成果に触れることにしたい。
ところで、日本人にとって日本語は母語のため、日本語音声の最も基本的な特徴は何かと聞かれても、すぐ答えるのは難しいだろう。ことばに関心を持っている人なら、例えば、単語が母音で終わっているといった特徴を挙げるかも知れない。実際、日本語の音声は、外国語と比較するとき大きい特徴を持っていると云えるけれど、以下の議論はそのような糸口になるだろう。
通常、人が話す場合、無意識のうちに様々な種類の声を出しているが、そこで使われる様々な音声はどのように区別されているのだろう。例えば、日本語を話す時、有声音と無声音の違いを意識することはまずない。しかし、英語で有声音をVoice、無声音をBreathと云うことからも想像されるように、人の声では、Voice(=声) とBreath(=息)の違いが基本的である。では、息と声の違いは何か。それは、人間の声を作る音声器官の中心である、喉頭部の声帯の働きに依っている。つまり、肺からの空気の流れを声帯を閉じることによって妨げたとき、空気圧によって閉じた声帯を震わせながら隙間を通っていく時声が作られる。これが有声音である。他方、声帯を閉じない状態では、肺からの空気はそこを通過する。つまり、息を吐くことで作られる音が無声音である。日本語の場合、母音はすべて有声音であるが、子音は[t],[p]などの無声子音と、[d],[b]などの有声子音に分かれている。そうした異なる様々な音声はすべて発声器官の形や運動を変える(調節する)ことによって作りだされていると考えられている。それは尺八やフルートのような楽器が、様々な音色を作り出すことと似た面を持っている。
音声や音素を区別するため、上述した有声―無声という区別をさらに一般化した、調音点と調音法の組み合わせによる方法が広く利用されている。
表4-1. 子音と母音の調音
表4-1[子音]は、よく使われる子音をその方法で配置したもので、異なる子音はそれぞれ別な位置に来ていることが分かる。
母音については、日本語では、あ、い、う、え、お の五つの母音があり、すべて有声音である。表4-1[母音]に、母音を舌の位置と口の開きによって区別する仕方を示してある。
後に構造言語学と呼ばれたソシュールの言語学では、音素(phenome)は、人が頭の中で把握している音声の最小単位として考えられた。人が実際に発する音声(phone)はパロールとして上で説明したような音声器官の生理的性質や音の物理的な性質で決められるが、音素は、誰でもが同じと認識できるような音の単位として、上述したような抽象的なラングの性質を持っている。既に説明したことだが、言語記号における音響映像(シニフィアン)はこの音素が連なった音素列を指すものである。また、音韻ということばは、音声と区別される音素やアクセントなどを対象とした構造言語学の用語である。
ところで、単語を構成する、意味を持った最小の単位が形態素である。“(桜が)咲く”といった文を仮名書きすれば、“さくら”、“が”、“さく”の如く形態素に分かれる。さらに、“さく”をさ[sa]、く[ku]のように分けた場合、それらに意味はないが、音声としては分けられ、音節(正確にはモーラ)を与える。それらの音声はさらに、[s]と[a] や[k]と[u]などの音(単音)に分解でき、音素はそのレベルで考えられる音の単位である。ラングの性質から、一般に、一つの音素には多くの異なった音声が対応している。
では、音素は音声とはどのように違うのか、について考ることにしよう。 まず、音素であるかどうかを判定する方法は、
“ある音声の違いが意味の違い(差異)(言語学では「対立」と呼ばれる)を生じるか否か”、
による。以下では、表記法の慣例に従い、音声には[ ]を、音素には/ /という記号を使用する。
例として、日本語で貝[kai] と鯛 [tai]を考えた場合、音声として異なるのは[k] と[t]だけで、一方、互いの単語の意味は異なっている。従って、上の音素の定義から、異なった音声[k]と[t]から音素/k/と/t/が抽出される。こうして、上の子音[t]および[k]について、表4-1 から、[t]は歯茎閉鎖音、また[k]は軟口蓋閉鎖音と呼ばれるそれらの音は、ラングとして異なった音素/t/および/k/を与えることになる。同様に、ソリ[sori]と堀 [hori]をとれば、[s]と[h]から/s/ と/h/の音素が抽出できる。
ところで、一つの音素が異なる音声として現れた場合、夫々の音声を“異音”と云う。例えば、新橋、進呈、半額のような3つの音声では、日本語の音素/N/は[ʃimbaʃi],[ʃintei],[haŋgakɯ]のように、後ろに来る子音の種類に応じて、三つの異なった[m],[n],[ŋ]という音、つまり異音として現れる。これらの異音が現れる条件(環境)は互いに異なっていて、一つの条件が現れた場合には、他の条件は現れない。そのため、複数の音声[m],[n],[ ŋ ]から一つの音素/N/を抽出するための条件となるのである。
構造言語学は、音素が体系をなすとして、こうした音素を分析する方法を開発した。が、これによって云えることは何だろう。成果の一つとして挙げられるのは、日本語と外国語の音素の体系は異なっているということである。例えば、日本語と英語、あるいは日本語と似ていると云われる韓国語とは異なる音素の体系を持ち、そうした音声上の違いは夫々の言語を使う社会によるのである。
次の例は、韓国語との音素の違いを示している。つまり、日本語の破裂音の子音は、発声器官のなかに空気を閉じ込める状態から閉鎖を離して子音を発する時、最初から声帯を震わせる(有声子音;d、gなど)か、閉鎖を離して子音を発してから(無声子音;t、kなど)声帯を震わせる2種類の区別があり、“タ”や “ダ”、また“カ”、“ガ”などの音声がある。
韓国語には、t、 kなどの子音とは別に、閉鎖を離したあと声帯を閉じて母音を発するまでの間に、気息を伴う別の種類の子音 tʰ kʰ が作られる。そうした種類の子音を日本語では区別しないかことから、日本語と韓国語の音素がラングとして異なる体系をなす根拠を与えることになる。つまり、日本語と韓国語では、音の区別のシステム=体系が異なっているという訳である。
上で議論した音素は、個別言語を超えて普遍的に特徴づけることは可能なのだろうか。この疑問に答えるため、“弁別素性”と呼ばれる、対立する音特徴が議論されている。こうした議論には、ソシュールのはじめた構造言語学の成果である音素はさらに小さな単位に分けられるのか、という問題が現在もなお関わっているのである。
次節では、ソシュール以降の言語理論の流れを、本稿に関係する範囲で概観した後、今後の予定を簡単に述べる。
8.ソシュール以降の言語理論の流れ
本節では、今後の本論の展開に関わると思われる範囲で、ソシュール以降の言語理論の流れについて大雑把に触れる。ここで、注目する言語理論は二つある。第一のものは、チョムスキーの生成文法である。もう一つは、認知言語学と呼ばれごく最近注目されているものである。以下で概要を述べるが、ソシュールの言語理論がそうであったように、新たなパラダイムを作ったと云われているそれらの言語理論の背景には強力な思想がある。それ故、理論の内容自体はそこに立ち入る以外把握出来ないのは当然であるが、それらの理論を動機づけているものは何か、などそれぞれの理論の背景や特色について知ることは比較的容易にできそうに思われる。
まず、歴史的な順に生成文法から話を始めよう。チョムスキーはソシュールに始まる近代的な言語学の基礎を問い、言語の科学的基盤を構想し、理論的枠組みを提案した。チョムスキーが現代の言語理論を創ったと見なされている理由もそこにあるようだ。一言でいえば、チョムスキーは、言語に対するそれまでの見方を根本的に変え、ことばを使用する能力は、人間の脳に関わった心の働きとしたのである。
言い換えれば、ことばの世界だけにとどまっている限りことばを理解することは出来ないと云ったのである。特に、彼はことばの重要な機能は“創造性”にあると考え、それに答えることが言語理論の最大の目標であるとした。この目標はソシュールらによる構造言語学の弱点を意識したと云われている。チョムスキーによれば、言語の創造性とは、新しい文を自由につくれること、またきちんとした文法にのっとった文によれば、経験していないことでさえ理解できることである。生成文法はこうした機能を満たす、文を作り出すシステム(構文システム)として提案されたのである。言語理論は、統語論(Syntax、構文論とも云う)、意味論、語用論と大別されることが多いが、チョムスキーはもっぱら統語(構文)論を考えた。
ソシュールは言語記号、つまり、概念と音響映像の対を無造作に心の中で結びつけたが、チョムスキーにすれば、そのようなことが心の中で、つまり脳の機能として可能なことかを考えなければならないのである。つまり、ソシュールとチョムスキーの違いについて言葉を変えて言えば、ソシュールは「言語の体系がどのように作られるか」を言語の構造論として問題にしたのに対して、チョムスキーは、デカルト流の言語観に基づいて、「何故人は言葉を話す能力を持ち得るのか」という問いを背景として、Syntax中心の生成文法を開拓したと見ることも出来る。
言語に対するチョムスキーこのようなアプローチは基本的に自然科学のものと云え、言語への自然科学からの入り口が作られたと受け止められているようだ。しかし、チョムスキーによる、「人は言葉を話す能力をもつのはなぜか」という問いは、通常の物理学の方法のレベルを超えた、Whyに関した問いであるから、答えが得られる保証があるわけではない。
ソシュールを批判して生成文法を唱えたチョムスキーによって、構文や文法など文の構造が扱われたことは歴史の皮肉と云えるかもしれない。しかし、彼が意味論を避け、統語論を言語の中心課題に据えて、言語革命を唱えたことは歴史の皮肉などに留まるようなことではなく、むしろ現代の基本的課題ではないだろうか。何故なら、上述したチョムスキーの考えはデカルトに強い影響を受けたと云われ、従って、デカルトが拓いた近代の抱える問題が今日の情報化社会の中にがっちり持ち込まれることを意味しているからである。
また、本論の課題である人間の感性の立場からは、チョムスキーの言語観は、人間の理性にのみ注目し、極めて偏っているという課題もある。しかし、その問題は次回以降の議論にまわし、ここでは近年活発に議論されるようになった、認知言語学に移ろう。
1980年後半ころ誕生したとされる認知言語学は生成文法の行き詰まりと関連して登場した。特に、生成文法の見方の支配から抜け出すため、生成文法における“言語機能のモジュール性”という理論的仮説が攻撃の標的にされた。と云っても、認知言語学および生成文法両者の基本的性格として、構造言語学にはない、共通する面もある。つまり、人が言葉を話せるのは言語知識があるからで、それは人間の心の仕組みの一環であるという見方は両者に共通している。しかし、生成文法では、人間の様々な心の仕組みの機能全体の中で、“言語知識は自律した機能”をもつと仮定する。チョムスキーはこの自律した機能を「心的器官」と呼び、心的器官として言語知識を研究することを提案した。認知言語学はこうした見方に反対し、生成文法とは対照的に、言語能力は心の他の機能、例えば、知覚や記憶などと密接に結びついたものという認知的な立場から、言語の多様性を、意味論を中心に捉えようとする。例えば、ことばの持つカテゴリー化の問題では、集合の要素に典型的な要素とそうでない要素からなるプロトタイプカテゴリーという新しいカテゴリーが提案されている。これは、幼児が言語を習得する過程に見られるカテゴリーに該当し、言語習得論など新たな展開が期待される。
[注1]:
表4-1[子音]の表は、李 在鎬、村尾治彦、浅尾仁彦、奥垣内 健、認知音韻論・形態論、くろしお出版、2013、p.10を参考に改変。[母音]の表は、町田 健、ソシュールと言語学、講談社現代新書、2004、より。
今後の予定について:
(“感性とことば”(5)以降は、1~2か月準備してから継続します)
これまで“感性とことば”では、4回にわたって、ソシュールを糸口に、言語理論の主だった流れを通して、言語とは何か、意味にはどういった一般的性質があるか、また人間のこころと言語はどのような関係にあるか、等について駆け足で検討してきた。
いろいろな言語理論が提案されたが、その背後には、狭い意味の言語の範囲を超えた独自で強力な思想が感じられる。それは言語の働きがこころの領域に関わっているからであり、言語の新しい見方やひいては新しい展開につながる可能性の糸口でもあるように思われる。
次回から、今回まで見て来た言語理論に関する一般的な議論を踏まえ、本稿の目標である、人間の感性とことばはどう関わっているのか、という問題、さらに、感性と工学に関わる、感性に関する自然言語処理や製品の感性評価の問題等を取りあげる予定。