-感性言語処理は実現できるか-
長島 知正
ソシュールの提唱した言語理論は構造言語学と呼ばれるが、現在、言語専門家による彼の評価は総じて厳しい。しかし、感性を扱えるような言語理論は未だ専門的な分野として確立していないから、全否定的な評価は本稿にはなじまない感じがする。
5.言語の記号論
ソシュールは、最も重要なことばの性質として、前回説明した第一原理:「記号の恣意性」を挙げた。言語のもう一つの基本的性質として、彼は第二原理:「シニフィアンの線的特性」に着目する。ソシュールの記号概念は、ことばを交わすことは記号をやり取りすることという見方をもたらしたが、その影響は狭い意味の言語の問題に留まらないことにも注意を払う必要がありそうである。我が国の高度成長期、科学と云えば自然科学を指していたが、いつの間にか自然科学以外の領域で、〇〇科学といった名称が急に増えた。様々な分野を超えてこのような変化が起きた理由は知りようはないけれど、記号論の影響も無視できないのではないか。
しかし今日、科学・技術に対する絶対的とも云える信頼は揺らぎ、かつてのような科学に対する素朴な楽観論をもはや期待できない。科学・技術に対する認識も新たにしなければならないと云えるのかも知れない。
その意味からも、第二原理に進む前に、記号論についてここで少し立ち入っておこう。
まず、ソシュールの言語記号に限らず、身の周りにある一般の記号から話を始めよう。図3-1にそうした3種類の記号を例示してある。図3-1の3種類の記号は、左から、郵便局、進入禁止(交通標識)、およびモールス信号(SOS)を表している。
図3-1.記号と意味
前回説明したように、ソシュールの言語記号は概念と音響映像の結合である(本論では、image acoustique を聴覚映像ではなく、音響映像と呼んでいる)。しかし不思議なことに、ソシュールの「講義」には、言語記号を規定している、概念や音響映像という二つの語のいずれの内容についても詳しい説明はない。その上、例えば、「概念」ということばをあっさり「意味」と言い換えて使うなど、細かなことにとらわれない粗削りさがある。
そこで、国語辞典(集英社、第2版)を引いて、「概念」ということばを検討してみよう。次のような説明がある:
[哲学用語] ”語として表される事物について、思い浮かべられるその内容・イメージ(*1)。 表象の内容として、それによって指示される事物の集合(外延)と、それらの事物が共通に持つ性質(内包)で規定され(*2)、その言語的表現を名辞と呼ぶ。“ また、外国語では“Concept”。
上の引用において(*)は筆者が付けた。(*1)の概念の説明はかなり広い解釈を許容するものである。一方、(*2)の方は、論理学の観点から概念を捉えたと思われるが、イメージという語の解釈によっては、(*1)の説明とは重ならない領域が生じる余地がある。この当たりは今後の議論でも留意して進めたい。また上で、概念を言葉にしたものを名辞と云っているが、具体的に名辞とは何を指すか確認しておこう。端的に云えば、名辞とは論理学用語で、文;AはBである、を構成する要素、AあるいはBに相当する。つまり、名辞は、名詞とは違って、複数の名詞や形容詞なども含む一つの概念を表している。
ここでソシュールの言語記号に転じよう。そのため、“音響映像” をひとまず、ある語を表す音声として、上の“概念”と結びつける。ソシュールは具体的対象として馬や樹を挙げながら、言語記号の表現として下の図3-2を示している。図3-2の左側のように、言語記号は概念と音響映像の対を円で囲んだ形で表される。ソシュールは、この概念と音響映像の対で与えられる記号の夫々の要素を、シニフィエとシニフィアンと呼び代えたのである。なお、「講義」の日本語訳では、訳者小林英夫が作った所記と能記ということばが充てられたが、最近はシニフィエ、シニフィアンが用いられているようである。なお、ソシュールは図の円の両側にある矢印により、左側の矢印は音声(音響映像)から意味(概念)を対応付け、右側の矢印はその逆を表すとしている。
図3-2.ソシュールの言語記号
また、音響映像については、聴覚器官(耳)に達する以前の音(物理的な音波)そのものではなく、聴覚器官に達した後の、脳で知覚される音素の列、云いかえれば、音声の表象を指していると考えられる。
以上の説明で、ソシュールの言語記号はある程度はっきりしたと思われるけれど、それでも議論はかなり抽象的でとっつきにくいところが未だいろいろある。中でも、ソシュールが言葉の本質と考えた、“ことばの意味”とは一体何んだろう。ソシュール自身、ことばの意味の重要性に着目したけれど、それを具体的な形で明らかにした訳ではない。そこで、ことばの意味について、ここでは、一般的な観点から少し掘り下げてみよう。
“芸術作品の意味”とか“あいつがやることは、さっぱり意味が分からない“などと云うように、”意味”が使われる対象はことばに限られない。従って、意味とは、例えば、人間の表情、動作、作品、記号など、人間の感覚で捉えられるかたちで表現された対象に含まれる内容や意図を表していると考えられる。このように意味を一般的に捉えた場合、ことばの意味とは、ことばに含まれる内容や意図と云うことになる。”ことばに含まれる内容“とは”ことばが言い表す内容“、つまり、”ことばが指し示す内容“と言い換えられるだろう。この内容には様々なモノや事といった事物や出来事が含まれる。これらの最も単純な場合、ソシュールが言語記号の例として取り上げた、樹や馬などのような単語に対応する。
上の説明には、“ことばに含まれる内容“について少し省略がある。つまり、ことばに含まれる内容には以下のような微妙な問題がある。つまり、(1)ことばの意味を狭く考えて、ことばが指し示すのは概念や意義と考えるか、あるいは(2)それを超えて、広く、情緒的な情報も含めるか、という問題である。ここで、情緒的な情報には、例えば、好き・嫌いのような感情的な意味などが含まれている。
上で指摘した(1)、(2)の違いは、従来言語科学で十分に議論されてこなかったのではないだろうか。言語理論の関心は(1)のことばの狭い意味に集中してきた。だが、感性を(1)の観点で扱おうとしても、そこには本質的な困難がある。その議論は後で行うことにして、以下では、意味に関して、記号との関連から一つ補足をしておきたい。
ソシュールは、言語を記号として扱う方法は言語以外の分野でも広く適用できると考え、記号論という分野を示唆していた。しかし、実際には彼は何もせず、記号論はモリスによって具体的に展開され、体系化された。モリスによれば、ものが記号化される過程には、記号、指示対象、および解釈者の三つの要素が含まれる。そこでは、記号と記号の関係のみを抽象した形式的関係、記号が指示する対象との関係のみを抽象した意味的関係、また、記号が解釈者の主観的な心像などを表現するという関係(記号に対する解釈ではない)だけを抽象すれば、表現関係が成り立つとされる(図3-3)。
図3-3.記号過程
これら三つの関係に従い、構文論(統語論)、意味論、語用論という区分は記号論、更には言語理論にも及んでいる。
6.言語の統合関係と連合関係
ソシュールは「講義」の冒頭、ことばは何故通じるか、という問題に応えるため、二人の対話者を登場させ、任意の二人の間で言葉が通じるために必要なことは、“ことばの意味”が共有されていることである、と云った。その意味は、どのように決まるのか、と云えば、二人が生活している社会集団が一種の約束ごととして決めているとした。そこまでは良いとして、そうして決まる言語には果たしてどのような普遍的性質があるのか。これに答えることが、ソシュールの「講義」の目標だったのである。彼の考えた言語の第一原理については既に述べた。以下では、彼が考えた言語の第二原理を取り上げよう。
第二原理:シニフィアンの線的特性
は、第一原理の言語記号が有名になったことに比べ余り知られていない。しかし、後の説明からも分かるように、言語にとって非常に大切なものであるが、この原理の内容は極めて単純である。つまり、ことばを話す場合、音声を一時に一つずつしか発話できない、ということである。その結果、ことばは必ず一次元の線状に並んた形に展開される。この性質はことばを文字で表した文章の形に端的に反映されているけれど、あまりに当たり前な性質であったために、ソシュールが原理として取り上げるまで、注目されなかったらしい。しかし前節触れたように、ことばを記号として見るとき、記号一般にはない、ことばの基本的特徴であることがハッキリする。
この第二原理から、ことばについて具体的な性質を引き出すため、ことばについての仮定:“同義語、つまり同音多義のことばはない”を置くことにしよう。
この仮定は、原則的に満たされているに過ぎないが、一つの個別言語の中で“同じ音を持ち、違った意味の単語はない”ことを表す。つまり、異なった音声の語は必ず異なる意味が対応している。その場合、互いの語の意味が異なるようにすることが必要であるが、その状況は見方を変えれば、各単語の意味はそれ以外の全ての単語の意味との関係で決まっていると考えることも出来る。そこから、ソシュールは各単語の意味は予め自由に決められず、語は独自の自存的な意味を持ちえない、と考えたようだ。彼は、要素の価値は予め決まっておらず、他の全ての要素との関係からその価値が決まるような要素の集合を「体系」と呼んだ。ここで、他と要素との関係としてソシュールは”差異”を想定している。すると、個別言語に含まれる単語の意味(語の価値)が全ての単語との関係で決ることから、個別言語の単語は体系をなす、というソシュールの言語に対する枠組みが得られる。
ソシュールは、個別言語の体系における、基本的性質として次の関係があることを示した。
ソシュールによれば、実際の言語活動の中で単語を結びつける仕方には二種類あって、それらはそれぞれ独自の価値を生み出す。
第一のものは統合関係(rapport syntagmatique)と呼ばれる。統合とは、まとまりを持った言述(会話)を形作る上での話線に沿っての語と語の結合であり、そこでは、直線的に、不可逆的に並ぶ一つ一つの語は、夫々の前にある語、あるいはそのあとに来る語との対立によって価値を持ったものとなる。この統合関係は連辞関係と呼ばれることもある。ソシュールは主に文を構成する要素としての単語を扱い、文全体をあからさまに考察の対象としなかったため、この統合関係に関する議論は中途半端な印象である。ソシュール自身はこの統合関係を連辞関係として、複数の語が結びついた、買物などの熟語や骨を折るといった慣用句を考えていたから、この連辞関係から、線状に並ぶ単語の語順を決める規則を導こうと考えていたのではないかと推測されている。しかし、ソシュールを受け継いだ研究などを元に統合関係を解釈すれば、第二原理によって、必ず線状に配置することばの要素は、主語と述語のような、互いに対立する関係として文法にも関わってくることはさらに重要な点である。
これに対して、第二の関係は連合関係(rapport associatifs)と呼ばれる。連合とは、何らかの共通性を持った語と語が記憶の中で類似したまとまりを作っているとき、その類似によってなされる結びつきである。この類似は意味によることもあれば、音によることもある。我々が発話する際、選択する語は、この連合関係の下にある語群からである。連合関係にある互いに共通した性質を持つ語群は、互いに記憶の中で連合し、潜在的な記憶の体系をなしている。つまり、連合関係が大切なのは、豊かな語彙に対する記憶の宝庫と云えるからである。この連合関係は範列関係(rapport paradigmatique)とも呼ばれ、統合関係(rapport syntagmatique)と用語として形式が整うので使われる事がある。
ソシュールは連合関係が生み出される例として、enseignement(教育)という単語を元に、図3-4のように、enseigner(教える)、renseigner(情報を与える)などのように共通の語幹を持つことや、共通の接尾辞を持つこと、また、シニフィエの類推に基づくことや逆に、シニフィアンの共通性に基づく例を与えている。さらに、統合関係と連合関係の二つが同時に働く例を示しているが、ここでは省略する。
図3-4.連合関係
ソシュールに従い、上の二つの関係の特徴を以下のようにまとめておこう:
まず、統合関係は、目前にある顕在する系列の中で、同時に存在する二つ以上の辞項によって作られる。一方、連合関係は、潜在的な記憶系列の中で、目前にない辞項をつなぐものである。
“感性の覚醒”を著した中村雄二が指摘するように、ソシュールの言語理論の基本的成果は、ことばには話線に沿って語を結合する統合関係とは独立に連合関係が存在することを明確にしたことと云えるだろう。この連合関係は和歌などに限らず、豊かな日本語の土壌と云えるから、ここに、本稿のテーマ:感性とことば“に関わる一つの手がかりが得られた。
とはいえ、1970年代から感性に着目し、独自の世界を拓いた中村の“感性の覚醒”であるが、タイトルで感性を謳っていても、内容としては情念に的が絞られていて、必ずしも感性を中心とした議論になっているとは云い難い。感性についても、ことばについてもさらに検討が必要である。