「感性とことば」(2)

-感性言語処理は実現できるか-

長島 知正

3.ことばの研究と科学

 

“ことば”という単語は日常生活で何気なく使われるけれど、実際にはそれは何を指しているのだろう。日本人の場合、日本語に当たる母国語なのか、あるいは、最近早期教育で話題になる英語のような第二言語や第二外国語のことなのか。そのような個別的言語ではなく、言葉の一般的な性質を指しているのだろうか。人間が日常普通に使う自然言語は、このようにあいまいな面を抱えているため、理性的な人、特に自然科学者から嫌われる。もし、スノーが昔云った二つの文化論が今日も活きているとすれば、その大きな理由は“ことば“の違いに由来すると思う。しかし、我が国では、ことばが話題になるのは、英語の会話力をつけるにはどうすれば良いかとか、受験の必修科目だからといった文脈に限られている実情がある。従って、ことばを研究するとはどういうことか、について考えたことのある人も多くない。ここでも、細分化社会の弊害は顕著である。その意味で、理系の人が言語について考えるようになれば、社会に様々な変化が起きる可能性があると思うのだが、、。

ここでは、近代的言語学を打ち立てたと云われるF.ソシュールに注目し、その歩みの一部を辿ることによって、言語研究の感触を探ってみよう。

Exif_JPEG_PICTURE                        図2-1. ヨーロッパの公園

F.ソシュールは20世紀の初め、ジュネーブを拠点に活動した。現在世界で使用されている言語は6000種以上あると云われているが、その当時の言語に対する研究は言語を歴史的に行うものであった。そうした研究では、世界で使われる様々な言語の中で、似た変化をする言語を探ることから、個別言語をグループ分けする。例えば、英語とドイツ語を比べると、良く似た単語が大変多い。例えば、父は、夫々FatherとVater また、足は、FootとFuss である。一方、日本語では夫々、チチ、アシと呼ばれ、英語やドイツ語との関連はない。このように、言語が違えば普通、単語の語形は違う。似た語形を持った言語同士には共通する何かがある可能性がある。端的に云えば、言語として共通の祖先(祖語)が考えられる。逆に云うと、似た言語は共通の祖語から分かれて生じた結果、同じ意味のことばの語形は似ているのだという訳である。

このような研究は比較言語学と呼ばれている。その大きな成果として、インドの古典語であるサンスクリット語、ヨーロッパの古典語である、ギリシャ語やラテン語、そして、現在使われている英語、ドイツ語、ロシア語などのヨーロッパ諸言語の祖先(インド・ヨーロッパ祖語と呼ばれる)が一つであることが示されている。インド・ヨーロッパ祖語は、現在は死語であるが、6000年~9000年前に話されていたと云われている。文献など全くない時代に話されていた言語がどのようなものであったか、科学的に推定されたのである。

比較言語学の研究では、古い文献や様々な資料から出来る限り多くの実例を収集し、相互に比較して、音韻変化の規則性を発見することによって、祖語で使われたと考えられる音が子孫の言語へどのように変化したかを推測する。その方法の要点は、現在使われている様々な言語から、生物の進化に似た系統樹とその起源としての祖語を構成することで、形式的に、生物の系統発生と同様な言語の発生の系統樹が生成される。しかし、親の世代から教えられて(学習によって)子の世代は言語を受け継いでいく過程の繰り返し中で、言語が進化するメカニズムには未だはっきりしないところがある。

ソシュールは若くして比較言語学で重要な研究を行って注目された。しかし彼は、個別言語の歴史的変化を再現する問題を離れ、言語のさらに直接的で原理的な問題、つまり、言葉は何故通じるのかという問題に目を向け、現在使われている様々な個別言語に共通する普遍的な性質を捉えたいと考えた。こうした経緯から、ソシュールは言語の近代的研究の父と呼ばれているけれど、どうも、自ら打ち立てた研究目標に於ける具体的成果からというより、言葉を科学的な研究対象として、現在使われている諸言語に共通する普遍的性質を研究するための科学的指針を与えたことにあるようだ。つまり、”言語を科学的に研究する”流れを作った一人と云えるのだろう。ただし、“科学的”ということばの内容は必ずしも一定ではないことに留意が必要である。何故なら、言語の問題は、人間とは何かということを科学として一義的に捉えることの困難と重なってくるからで、それは本稿の「感性とことば」の背景でもある。

 

4.何故言葉は通じるのか:ソシュールを手がかりとして

 

前回、幼児が言葉を使い始める段階で観察される発話の特徴をかいつまんで紹介した。そこでは、言葉を話せるようになるため1~2歳にしかならない幼児は、未発達の脳や身体を使い、身近な存在から全力を挙げて真似しているらしい様子が窺われる。詳細は別に譲らざるを得ないけれど、ことばの習得過程中の出来事で、筆者が最も驚かされるのは、幼児は誰にも教えられないにも拘らず、非常に高級と思われるようなことを、やってしまうことである。

幼児の時代の記憶は、成長に伴って急激に増える学習に必要な大量の記憶の陰に隠れ、普通ほとんど具体的な形をとどめない。1~2歳までの記憶は余程の出来事でもなければ思い出せず、云わば、記憶の空白期間になっている。生まれた直後の赤ちゃんの感覚は大人のような異なる五つの感覚(五感)に分化していない。従って、感覚は互いに独立していないから、例えば、色や形の見えにしても、また匂いにしてもぼんやりして、それらは判然と区別されることなく感じられる。異なった個別的感覚が生まれるのは、幼児の脳が発達し、視覚や聴覚などといった領野が互いに分離して機能し始めるなど、基本的な脳機能が出来てからである。

ところで、言語は広く人文系のすべての分野が関わり、それ故、従来人文系分野の中心にあるものと見なされてきた。しかし、いかにして言語を使用できるようになるかは、コンピュータが言語を必要とすることを考えれば、自然科学や工学にとっても重大問題である。もちろんチョムスキーのような言語に対する科学的アプローチはあるけれど、言語学の伝統の中で、科学の影響は未だ微々たるもののように感じられるのではないか。今日、言語科学ということばが盛んに使われるけれど、“科学”の中身は生物学を含んだ広い分野で更に吟味される必要がある。何故なら、「人間は言葉を使うのみならずことばを楽しむ動物」だからである。

本稿の趣旨は「感性とことば」の関係を探り、整理することだから、言語の教科書のような話題を辿ることはしない。ここでは「感性とことば」の結びつきを念頭に置く一方で、人間が言葉を聞き、また言葉を読むための感覚、つまり視覚や聴覚などの感覚・知覚にも注目して、人の言語がいかに成立するかを考える。

感性とことば(2)Fig-2

図2-2. 生け花

「感性とことば」の関係という観点から、とりあえず気になるのは近代言語学の父と呼ばれるF.ソシュールである。以下ではまず、本論に関係する範囲で、ソシュールが唱える言語理論の要点を整理し、その後、「感性とことば」の繋がりの側面から、ソシュールの言語理論の問題点を検討する。

前節、ソシュールの研究の目標は、現存する様々な個別言語に共通する言語の普遍的な性質と云ったが、それはどう云った事なのだろう。ここでは彼の書物に目を移し、ソシュールが言語の研究をどのように考えていたのか、彼の研究に少し立ち入ってみよう。
その書物とは、彼が行った講義の内容を元に後にまとめて出版された「一般言語学講義」(以後、「講義」と呼ぶ)である。ソシュールの言語学のエッセンスはこの中に詰まっている。前述したようにソシュールは、何故ことばは通じるのかということを問題にしたが、そこで、彼が最も基本的性質としたのが、“ことばは音によって意味を伝達する過程”であった。

言い換えれば、ことばが通じるとは、話し手がある意味を持ったことばを発した場合、そのことばを受け取った聞き手が、話し手と同じ意味を理解するということである。「講義」には、そうしたソシュールの言葉に対する基本的な考えを説明する図が幾つか添えられているが、その一部を下にスケッチした(図2-3)。

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図2-3. ソシュール;ことばによる意味の伝達の仕組み

図2-3では、まず、話し手の頭の中に、ある概念(c)が浮かんだ場合、それに関係付けられていることばの音響(聴覚)映像(i)が対応させられる。さらに、音響映像は口や声帯などの発声器官を介して、音声として実現される。音声は空気中を伝搬し、聞き手の耳に伝わる。聞き手の側では、耳に到達した音の波を元に音響映像(i)が作られ、その音響映像に対応する概念(c)が引き出されて、聞き手は話し手が伝えたかった意味を理解する。なお、「講義」の小林訳ではImage acoustiqueを聴覚映像と訳しているが、ここでは、訳語として音響映像を使う。”聴覚”より”音響”の方が内容が近いと思うし、近年は音響映像という訳が使われている。

ここで、概念は単語の意味、また音響映像は、単語に対応した音声のことである。この過程を交換することによって、二人の間に言葉の意味の伝達が成立する。こうして、ことばが通じるということになる。

ソシュールは、以上のような事柄を背景に、言語が持つ普遍的な性質は何かを考える。「講義」の中で重要なポイントは、第一原理と呼ばれる「記号の恣意性」である。

ソシュールは、“記号”を“概念”と“音響映像”の結合と定義した。従って、上の第一原理は、“概念と音響映像の結合は恣意的である”と表現される。

既に述べたように、概念とは、ことばの意味、また音響映像とは、ことばとして発話された音声と解釈すると、第一原理は、「発せられたことばの意味と対応する言葉の音の関係は恣意的である」ということを述べていると考えて良いはずである。

更に、ソシュールは概念をシニフィエ(signifie’;所記), また音響映像をシニフィアン(signifiant;能記)とした。従って、第一原理について、”シニフィエ(signifie’)とシニフィアン(signifiant)の結びつきは恣意的”と云っても同じことである。

ここでは、シニフィエ(signifie’;所記)とは意味されるもの、またシニフィアン(signfiant;能記)は意味するものを表しているが、これらの言葉が、仏語の記号;signe(シーニュ)に由来していることは明らかだろう。

こうした議論の展開から、何か形式的な匂いがしてきたと感じる人がいるに違いない。聞いたこともないような言葉を何のために使うのか、と。好意的に云えば、手垢のついていない新しいことばは分野を超えて“構造主義”を広げるために、不可欠だった、とは云えるだろう。

構造主義は“記号”をキーワードに文系・理系の垣根を超える思想として20世紀後半世界的に広まり、我が国でも一時相当なブームを呼んだ。言語を記号と捉えようとしたソシュールは構造主義の元祖と担がれた。一時注目を集めた構造主義もその後は忘れられたようになった。本稿では構造主義自体には深入りしないが、後で、感性との関わりでソシュールの言語理論を考え、関連した事柄を議論する予定である。

以下では、ソシュールの言語記号について少し具体的に考えよう。そのため、幼児がことばを初めて覚えていく過程をもう一度想像してみよう。幼児が言葉を覚えていく過程において、身近にいる人や身のまわりにあるモノの名前を覚ることが、ことばを使えるようになるために最初に必要なことである。幼児に限らず、ものに名前をつけることは、ことばの最も重要な働きを示していると思われるが、ソシュールの記号(言語記号)は、とりあえず、ものに名前を付けるという行為と考えると、近づきやすい面がある。

例えば、私のツクエ(机)の上にあなたがメガネを置き忘れたとしよう。忘れ物を届けてほしいと電話した時、忘れたのはツクエの上に置いたメガネだということが伝わらなければ、せっかく電話しても用事が処理されることはない。つまり言葉を介して、メガネを移動させることは出来ないからだ。これが、モノにメガネという名前のことばを付けた効用である。日本語では、目の前にある四本の脚と平らな天板を持った構造物をツクエという名前で、また二つのガラスとそれを耳によって支える形態の構造物はメガネという名前で呼ばれる。ソシュールは、名前を記号として見直すと同時に、平板を四脚で支持する構造物をツクエと呼ぶ(名づける)ことに必然性はないから、ツクエという名前は対象の意味(概念)と関係しない(恣意的な)一つの記号(言語記号)としたのである。

ところで、ソシュールは更に、人間の言語を使用する能力、ランガージュ(langage)は社会的な活動を担う言語、つまりラング(langue)と個人的な状況や事情を表す個人のことばパロール(parole)という互いに異なる要素で構成されているとした。この二つの要素、ラングとパロールの区別は抽象的で分かりずらいけれど、音声として考えれば、後に説明する音韻と音声に夫々対応するものである。

言い換えると、彼は、実際に話される言葉(パロール)は複雑で恣意的なのものと見なす一方、記号システムとして言語(ラング)を中心に据え、その記号の成立要素として、上の例で説明したように、シニフィエ(所記;意味されるもの,意味内容)とシニフィアン(能記;意味するもの,意味表現)に分けた。その上でソシュールは、従来の言語研究が思考内容を表すシニフィエ(所記)に偏っていたことを踏まえ、言語の理論的体系化のために、シニフィアン(能記)に重点を置く必要があると強調したのである。

ソシュールによるパロールとラングは、夫々音声に表れた個人的活動と社会的な意味に対応しているから、両者の関係を考えるモデルと見なせば、今日も興味深いものがある。