「感性とことば」(1)

-感性言語処理は実現できるか-

長島 知正

1.はじめに

 

感性と云えば、まずは絵画や音楽などの芸術が思い浮かぶのが普通ではないだろうか。このことは、一般に感性とことばの結びつきはそれほど強いものではないと予測させるかも知れない。

それはともかく、ここでは読者として主に理系の分野で仕事している人やその影響圏に住む人を想定して、“感性とことば”はどのように結びつくのか、という問題を通して、理系・文系の繋がりを考えたい。だが、残念なことに、そうした理系分野の圧倒的多くの人にとっては、そもそも感性ははなはだ遠くにあるものと感じているのでないだろうか。筆者としては、「感性とことば」というテーマの中に、感性に近づく何か手がかりが見つかることを願っている。

ここで云う”ことば”はいわゆる自然言語である。”うっ、自然言語?” 既にここから、理系の人のつぶやきが聞こえてきそうである:

理系でもことばはもちろん使うよ。でも、日常生活で使われる自然言語のような誤りやすく、物事を正確に理解することを妨げることばは使わないぞ。なにせ、我々は数学という最も無駄のない高級言語を使いこなしているし、今更、曖昧な自然言語や感性などに付き合う暇なんて無いんだよなあ、と。

実は、筆者も少し前まで、そう考えていた。が、訳あって、ことばを勉強してみると、予期に反し次から次に誤解していたことが現れ、思い込みや己の無知に我ながら驚かされた。

自然言語は従来、典型的な文系の世界のものとされてきた。特に、我が国では文壇や文士ということばがあるように、明治以降も一種独特の文化が形作られ、云わば科学や技術とは対局的な世界があるように見える。もとより筆者のことばについての知識や理解は未熟だが、新しい世界が少しずつ見えてきたように感じてもいる。ここでは理系出身の素朴な考えから、感性 ー理性に劣らない価値を有する人間が持つ能力ー の織りなす微妙な世界へ、自然言語を介して見えてくる新たな切り口を探っていきたい。

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 図1-1. さくら咲く

一般的に云えば、ことばを切り口にした感性の世界には、詩や歌、特に我が国では和歌が知られている。しかしこの国で、いきなり古今集や和歌といっても敷居がたか過ぎるのではないか。とは云え、誰しも、日々の暮らしの中で、ふと口ずさむ歌謡曲やシャンソンなど生活に密着した歌があるはずだ。生活に溶け込んだ歌を心の歌と呼ぶこともある。またしばしば、優れた文章について、次のことが指摘される:

優れた文章には必ずどこかに、ことばに置き換えられない、論理をこえたものが含まれている。それは何というか分からないが、言葉や理屈を拒み、だがこころにまっすぐ届いてくる何かである。

上述されるような、感性に関わることばの働きは、いわゆる理系の観点から、どう捉えられるのだろう。そこに分け入るには、イメージのような、科学的には未踏の世界に踏み込み、そこで新たな端緒を拓くことが求められている。

こうした問題は、従来のように狭く捉えれば、文系の問題となるけれど、一方現実社会では、科学技術を通じて、そのような区分けには収まらない変化があちこちで起き、既存の知識体系の限界や考え方のほころびが垣間見られている。

上で述べた感性とことばの関わりが理解されれば、例えば、最近話題になった、人工知能で小説を書く試みなど、IT技術がことばの世界に強力な影響を及ぼす。更に、「様々な製品の質の評価」といった、感性を利用した新しい工学、感性工学の基本的課題にも繋がっていくのである。

私たちが日常使うことばはどのようにして始まったのか、この問題から本題に入ろう。

 

2.ことばのはじまり

 

古来、「ヒトとは何か」という問いには、二足歩行する、道具を使う、思考する、創造するなど、いろいろな考えが云われてきた。それらは皆一理あるけれど、ここでは、平凡であるが、「人とはことばを話す動物」という見解をひとまず受け入れよう。

 

人がことばを使うのは当たり前のことのようだが、この当たり前のことができなければ、恐らく人はほとんど何もできないだろう。

何故なら、一定の年齢になれば、子供たちは学校で基本的教育を受け、多くのことを学ぶ。そこでは基本的なことは何であれ、ことばを使って習うからである。

学校教育で何かを学ぶ時、ことばの使用は必須である。ことばを使用できることは特別の能力ではなく、当たり前のこととされている。しかし、筆者はことばを使うことについて、ふと不思議に思ったことがある。その経験について触れてみよう。

国語とか社会科の授業では先生は何かを説明するため、教科書に記述されている個所の文章を読み上げる。この時子供たちは、先生の読み上げる声を聞きながら対応する個所の文章を目で追って読みなさい、としばしば云われる。こうした指導は学習の過程で普通に行われているだろう。また筆者の時代は、英語の学習でも、英語の教科書(英文テキスト)を読みながら声を出して読み上げる音読ということも、外国語を学ぶ基本として行われていた。

つまり、ここで取り上げた習得の過程で基本になっていることは、発声された音を聞きながら、対応する箇所の文を、ほぼ同時に目で追って読みとること、あるいは、ある文を目で追いながら、その文字に対応した音を聞き分けることである。

筆者が不思議に思ったのは、ある文を耳で聴きとるとき、それに対応した同じ文をほぼ同時に文字で読んでいること。つまり、あることばを耳で聞きとると同時に目で文字を見てそれらが同一のことばであることを知ることだ。そのためには、耳と目を介した全く別の処理が、脳内で一瞬のうちになされていなければならないからである。

誰しも、自分がことばをどのように使っているか、改めて他人に分かるように説明せよ、と云われれば戸惑い、返答に窮するに違いない。このような問題をはじめ、人がことば(母国語)を覚え、当たり前に使用できるのはどうしてなのだろう。人がことばを話すという問題は、多くの不思議に包まれ、難攻不落のように思われる。だが、それでもあきらめない多少変わった人達もいる。彼らは、人はどのように言葉を話しはじめたかに話を転じて、手がかりを得ようとする。手がかりは二通りに分かれる。我々ヒトの祖先が言葉をいつ頃から言葉を獲得したかを問題にする場合と、一人の幼児の発達過程に於ける話し始めを対象とする場合である。前者については、文化人類学で取り上げられる間違いなく面白い問題であるけれど、未だはっきりしたことは分かっていないようだ。

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図1-2. 生け花

本論では、より身近な後者の場合について、次の問いに着目しよう:

大人はことばを当たり前のように使うが、生まれたばかりの子供はどのようにことばを使い始めるのだろう。

生まれたばかりの子供は、泣くことしかしない。おなかがすいたといっては泣き、またおむつを替えてといっては泣く。やや意外なのは、周りの人の心を和ませる赤ちゃんの笑顔も、笑顔に感情が伴うのは少し遅れてからのことのようだ。乳児の泣き声は、未だ言葉とは云えない。それは、動物が鳴くことによって、危険などを知らせる信号と類似のものだからである。乳幼児がことばと呼べるものを手にし始めるのは、母親などによる保護のもとでもう少し成長して、1~2歳になってからと云われている。

日本語には、音と文字という二つの異なったメディアがあるが、すべての言語がそうなのではない。アイヌ語などのように最近まで文字をもたなかったことばも知られている。

普通日本人は大人になれば、なんの苦も無く日本語として、この二つのメディアを使うけれど、赤ちゃんが文字を覚え、ことばを使えるようになるのは一般的には、3~4歳位からだろう。ことばとして使われるのはまず音声で、文字が使われるのは、相当遅れてからである。

幼児がことばを手にするはじまりは、幼児の身近で、もっとも長く一緒にいる人(典型的には母親)が、身の周りにいる人や物、例えば、母親、おじいちゃん、あるいは猫や犬などといった動物を指さして、ママ(母親)とかジージ(おじーちゃん)、あるいは、“ニャンニャン(猫)”、“ワンワン(犬)”などと云って聞かせるからだといわれる。つまり、身のまわりにあるものの名前をすぐ言葉にして云えるわけではないにしても、特定の対象を指しながら“ニャンニャン”、“ワンワン”などと繰り返して云い聞かせているうちに、これは何と聞くと、子供は猫や犬をそれぞれ指さすようになるという。ことばを発するより前に、心の中で、対象(物)と名前(ことば)という二つを一緒にしている訳だ。これによって、耳で聞き分けることから、語の働き(意味)が分かるようになったと考えられるのである、このような経験を繰り返す中で、子供はある日、指さしながら、パパとかワンワンなどと声を発するようになる。つまり、音声によることばの使用の始まりである。

人やモノと音声によるそれらの名前との対応という語の基本を覚えた後、母親などからさらに、ワンワンやニャンニャンなどの鳴き声とは別に、対象にはそれぞれ犬や猫と呼ばれる名前があることを教えられる。

こうして、ことばの最小単位である単語を身に着けていく。語の種類としては最初のうちは身の回りにある個々のものを表す名詞が中心であろう。だが、身のまわりにいる人や動物はじっとしていないで色々なことをする。そのため直に、走る、寝る、食べるなど動詞も覚え始める。この段階を終えると、いくつかの語をバラバラに並べ、単にものを指すことから、飛躍的に複雑な事物を表す文に近づいていく。一方、ことばとして文字の使用はかなり遅く、幼稚園等の場で先生の指導を受ける学習段階になってからが一般的なようだ。

以上がことばを幼児が話し始めるまでのあらましである。ここで、上で説明した言葉の獲得の過程で、注目すべき事柄をまとめておこう。

まず、子供が母親などの保護の下に、音声による言葉(の機能)を身につける際、まだ発達の初期段階にある幼児は、当然大人のやるような学習は出来ない。どうするかと云うと、親の云うことをそのまま真似ているように見える。物に名前をつけるということは、ことばを使用する上で最も大切な過程とも云えることだが、それを幼児は言葉を覚える最初にやっているのである。

真似は一般に学習より低級のように云われるけれど、真似るにしても、それが可能になるために必要な条件はある。それについてここで整理しておこう。

まず、(1)身のまわりにあるもの、ここでは、ぱぱ、犬などという身近にある対象を識別できること、また、(2)ワンワン、パパなどという音を聞き分けられること、そして、(3)身のまわりの対象(1)とそれらを指さして発せられたそれぞれの音声を聞き分けて(2)、それらを対応付ける、という性質である。真似しているにせよ、(3)の性質は、自分の外部にあるモノや人と身近な誰かが発した音声(名前)を1対1対応させる能力である。こうした抽象的な能力を、言葉を未だ使えないわずか1歳程度の幼児が持っていること自体驚くべきことである。しかし、そうした能力を基盤としてことばを使えるようになっていくらしい。

以上、大雑把に見た、幼児が言葉を使えるようになる過程である。そこでは、生得的、つまり生まれながらにして持っているとしか云えないような能力に支えられていることは想像以上に多いようである。ことばを真似して覚えることと人の生得的性質の関係については、後に再び触れることにしよう。

次回からは、(大人が使う)ことばはどのようにして成り立っているか、ソシュールの言語理論も参照して、ことばの基本的な性質を考察する。