ことばは何故必要なのか

―ことばを介して感性を探る―

長島知正

1.はじめに

「言葉とは何か」について人に尋ねたら、どういう答えが返ってくるだろう。ありそうな答えは、「そんなこと、決まっているだろう。ひと(他人)と話すためのものだ」、だろうか。これは、もっともな答えである。とは言っても、この答えで足りる人には以下は必要ないだろう。そうでない人は以下の議論をお読みいただきたい。

「言葉とは何か」ということは古来識者を捉える典型的な問題らしく、幾多の考察がある。しかし、「〇〇とは何か」と云うタイトルからも想像されるように、そうした考察を気軽に読めることは期待できない。そのため、実務的な見方をする人達などから、そうした議論を衒学趣味の暇つぶしと悪口を云われたりする。もったいないことだ。そのため、「言葉とは何か」と云う問題を、ここでは少し見方を変え、「私たちは何故ことばを必要とするのか」という面から考えてみたい。こう問うことによって、言葉の最も大切な働きが何であるかが浮き彫りにされると思うからである。

以下ではまず、「言葉とは何か」について最もオーソドックスと思われる捉え方を説明する。おそらく理科系の人の多くが持っている日常言語についての言語観はこの伝統的なものと思われる。しかし、ことばの見方については20世紀、大きな言語観の変遷が起きている。この出来事は言語学やその周辺での事件であって、日常生活で使われる個別言語それ自体が何か急に大きな変化した訳ではない。そのため、日常生活への実際的影響が意識されることはないので、これまで専門家以外に言語観が問題にされることは少なかった。が、実際には、小学生に対する英語教育やコンピュータ・プログラミング教育などの問題を通じて、「言語とは何か」が問われているのではないか。ここでは、20世紀の言語観の変遷とはどのようなものなのか、端緒となる現象を取り上げて感触を得ることにしよう。

最後に、言葉がギリシャ語ロゴスに由来することは良く知られているが、ロゴスを働かせるという動詞レゲインに、ことばと感性を繋ぐ重要な要素が含まれていることを示したい。これによって、センスという直感的判断としての感性の根拠がロゴスの働きに見いだされることが分かる。

 

2.言葉とは何かーことばの最も基本的な働き

幼児が言葉を話せるようになると云う事実は、ヒトに関する問題の中でも最も驚くべきものだろう。

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図1.どのように言葉を話せるようになるのか

 確かに、泣くことしか知らなかった、赤ちゃんが数年の間に基本的な言葉を操るようになる過程を注意して観察すれば、現在の科学では信じ難いようなことが山のように出来てしまうだろう(図1)。

しかし通常、脳が未発達な幼児の言語習得の問題は言語の議論から外されるから、ここでもそれに倣い、成人や子供を対象として、言語の基本的な性質を考えることにする。

ところで、「言葉とは何か」と問いたいのであるが、その問いの焦点は定めにくい。そのため、方向の定まらない議論になりがちである。そこでここでは、「言葉は何故必要なのか」という側面から考えることにしよう。この文脈では、「言葉とは何か」について、「人とコミュニケーションをとるため」と答える人は少なくないだろう。また、「自分の考えをまとめる手段」と云う人もいるに違いない。ここでは、それらをまとめたように見える、「言葉は思想を表現し、伝達する手段である」という標準的な答えに着目しよう。この答えは言語関係の通俗書によっているため、思想という語に違和感を持つ人がいるかも知れない。思想と云う語を思考に置き換え、「言葉は思考を表現し、伝達する手段である」としても構わない。更に制約をゆるめ、「言葉は思いを表現し、伝達する手段である」としても良さそうに思われる。

「一般言語学講義」を著して近代言語学を拓いたとされるソシュールに云わせれば、「言葉とは、相手に意味(=概念)を伝えるもの」と云っただろう。科学者として出発したソシュールがまず目指したのは、「感性とことば」の中で説明したように、「言葉は何故通じるのか」という、最も基本的でまた実用的な言葉の働きが成り立つ仕組みの解明だった。彼は、如何にして言葉が通じるかで重要なことは、聞き手は話し手の音声を正しく聴き取るのみならず、話された音声の言葉の意味を話し手と共有できることであるとした(図2)。それを可能にするような言葉をラングと呼んだ。また、話し手と聞き手がラングとしての言葉の意味を共有できるのは、言葉の意味、つまり音声(言葉)と意味の対応を所属する社会の一種の決まりとして学び、身に着けるからと考えた。

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図2.言葉が通じる仕組み(「一般言語学講義」より改変

 特定の個別言語を習得することは、社会に固定された意味を身に着けることでもある。音声記号(=ソシュールは単語を考えていた)、即ち、語の音声とその意味の対応には“恣意性”があるため、記号列からなる言葉を身に着けるためには一定の教育が必要になる。このように、人が個別言語を習得することは、その社会の中の役割を果たし、また文化を支えるための基盤であるが、一方、個別言語を習得することは、習得した言葉を介して、社会の固定した仕組みに縛られるという面は忘れられがちである。

ところで、上の「言葉とは何か」の説明には思想と思考等の違いはあっても、言葉は思想あるいは思考を表現し伝達する手段であり、その手段によって、思想や思考が伝達される、と云う点は共通している。ここで大切なのは、言葉が思想あるいは思考を伝達する手段つまり、道具とされていることである。つまり、思想や思考などに対して、言葉はそれを表現し、伝える道具だという訳である。そうした見方には、道具の価値は目的や目標の価値より一段低く見なされるという評価が伴っていることも留意がいる。言語の科学を確立しようとしたソシュールの「一般言語学講義」には西欧のこうした伝統を超えようという動機もあったと云われている。

上述した「言葉は思想(思考)を表現し、伝達する、、、」で下線の箇所には注意が必要であろう。つまり、言葉には思想(思考)を表現し、伝達するという働きがあるというのだが、思想や思考はものとは違って形がない。形のあるものなら確実に伝達するために手渡せば良いが、形のない思想などを他者に伝えるためには、まず他者がそれを分かる形にしなければならない。そのために、人間は知覚できる形に思想や思考を表すことが必要になる。人間は、絵画や音楽など他の表現手段も持っているが、とりわけ言葉は思想や思考を最もよく表す手段と考えられるのである。

もう一つ注意が必要なのは「表現する」という言葉遣いである。結論を先に言えば、表現するということばの使い方には2種類あり、そこに重要な違いあるということなのだ。まず、一つの使い方は、例えば、思想を表現するという場合、表現される、思想の内容そのものは表現する言葉とは別な形で既に決まっていて、表現とは単に決められたもの(思想内容)にことば(記号)を当てはめ、割り付ける作業を云う。論文や報告書などの内容を“記述する”場合の表現が典型的なものである。それと対照的に、表現主体の内的な思いを表現し、言葉自身が今までにない新しいもの(思想)を生み出す働きもある。

表現に対するこれら2種の言葉の働き方には、明らかな違いがある。前者の表現は分かり易い表現や合理的な展開を与えるという目的に適している。一方、後者の表現は、それとは対照的に一般に感情の表出の伴い、芸術分野では欠かせないものとなる。

前者の言葉の表現の典型的例がモールス符号に見られ、今日の情報通信技術の発展と繋がっている。モースが考案したモールス符号はいわゆるトン、ツウ―2種類の記号によって文字を表現し、例えば、“ニイタカヤマノボレ”のような日本語を符号に代えて伝えることできる。考案したモースはソシュールとほぼ同時代の人である。前述したようにソシュールの「一般言語学講義」は言語の機能をコミュニケーションとして捉えようとしたが、その記号論は情報通信技術の発展の契機を与えているように思える。

しかし、その後の言語学はそうした科学・技術の発展の流れとは非常に異なった道を歩むことになった。次節で、その一端を見ることにしよう。

 

3.揺らぐ言語観

云うまでもなく、20世紀は科学技術の時代と呼ばれるほど、科学技術は大きく発展し、その結果社会も大きな変化をした。よく云われることだが、自然科学は、人間の感覚から離れて原子レベルのミクロな自然の姿を捉えることに成功し、エレクトロニクス技術、特にコンピュータを利用したモノづくり産業の基盤を築いた。だが、20世紀も末になると、コンピュータはネットワークとして繋がり、社会はインターネットを核とする情報化社会へと大きく変貌した。情報化社会では、産業活動のみならず、人間の生活世界そのものがネットを介して繋がり、既存の伝統とは異なる新たらしい価値観のうねりが既に垣間見られる。

上のやや長すぎる20世紀以降に起きた科学技術の変化の記述は、裏返せば、私たちの生活世界そのものが最早情報ネットワークと云う情報技術抜きには成り立たない段階にまで来ていることを表している。トフラーは「第三の波」(1980年刊)で今日のインターネット社会を予測したことは良く知られているが、その一方で、我々がこのような科学技術を支配しなければ、科学技術が我々を支配するとも指摘している。

私たちはしかし、今日そうした新しい情報技術の問題に対処する考え方の枠組みを持っているのだろうか。負の兆候や懸念はあるにしても、まずは、ネットによって繋がった新たな知的基盤を文化として捉えていくことが必要だろう。そのような試行錯誤の中から、情報化社会の将来像や課題が明確にされていくのでないか。ここでは、ネット時代と云われる社会的背景を探る一助として、文化を象徴する言語を取り上げる。情報技術が大変化をとげた20世紀、実は自然言語の言語観も大きく変化した。以下では、そうした言語観の揺動を概観する。

ところで、社会の中では、相手に考える内容を間違えなく伝える手段として、前節説明したような言葉の基本的な働きが必要とされ、実用に供されているが、一方、言葉にはこうしたオーソドックスな機能だけに閉じ込められないような性質もある。20世紀の言語観は一見不可思議なことばの性質を巡って大きく揺らいだ。“言語論的転回”と云うことばが示唆するような言語観の変遷については別の機会に廻さざるを得ないが、ここではその一端として、伝統的な言語観が揺らぎ、逸脱するとはどういうことか、以下で見ることにしておきたい。

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表1. 言語に関する主な著作とキーワード

 ここではそうした言語現象として、伝統的な言語の働きとは異なる、詩的なことばの働きを取りあげる。既に説明したが、伝統的な言語観では、ことばはある定まった思想内容を表現し、伝達する手段である。それが機能するのは、ことば(記号)とそれが指示する概念(意味)の対応が社会の中で変わらずに(相対的に)固定されているという仕組みによって支えられているからである。それと対照的に、詩人が作る“詩的なことば”はそうした仕組みを壊すことによって、生きたものになる。

つまり、詩的なことばとは、日常社会の中で固定されていることばと意味の対応関係を様々な形で逸脱する言葉である。その際、逸脱のさせ方に定まった規則などないから、詩的なことばはイキイキとして生気が宿るのだろう。例えば、「燃えあがる怒りのつらら」、あるいは、「透明なブルー」のような、常識的なことばとは異なった組み合わせによって作られる新しい言葉は、それまでにない新しい意味を獲得して生み出される。大げさに云えば、新しい言葉の意味を獲得することは、新しい世界を切り拓いていくということでもある。詩人はこうした行動によって、日常世界に揺さぶりをかけ、新たな世界の創造と向き合っている。

こうした詩的なことばの働きで大切なのは、伝統的なことばの働きが、あらかじめ決められた内容としての思想を言葉によって表し、伝えることによって実用的機能を担っているのに対し、詩的なことばは、ことばそのものが作者自身の考え・思想を表現して伝える働きをすることによって創造的な働きを担うことである。こうした詩的なことばの働きが創造的であるということについては、異論があるのではないだろうか。確かに、自然科学における創造性は新法則の発見や新技術の発明などに関わる一方、詩的な言葉の創造的な働きは云ってみれば“ばかげた遊び”などであって、比べようもないと思うのではないだろうか。第一、遊びなどと云うもののどこに価値などあると云うのだ。

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図3.回転寿司

 しかし、ムキになってはいけない。

そうした人は回転寿司を楽しむ資格はないと云われてしまうかも知れないからだ。既成概念をひっくり返し、握りずしが目の前を動き回る今日の回転寿司はそうした“遊び”の発想がなければ、この世に登場しなかったに違いない。つまり、遊びは、心の豊かさにとって不可欠な要素なのである。伝統的な学問の世界の発想などからは受け入れがたく見えても、このような考え方の基盤的転換が今日の社会の様々な分野で必要とされているのではないか。

ところで、詩的なことばでは、表現されるものと表現するものが分離されている日常言語とは対照的に、それら二つのものが分離せず一つのものとして働いている。

上でも述べた詩的なことばにおける表現の内容と手段の非分離という言語の特徴は、言語らしい表現にも見出すことが出来る。例えば、手話は伝える内容を、手を中心にした身体の動きによって表現する。

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図4.フラダンスは気持ちを伝える身体(身振り)言語

 また、ハワイのフラダンスは手や指先のみならず、体全体のゆったりした動きによって気持ちを表している。そこでは、表現手段としての身体の動かし方は内容に依存し、相関している。

また、詩的なことばに関連した言葉には、擬態語、擬音語から来るオノマトペもあるが、それらは、ソシュールが言語の第一原理とした、“言語記号の恣意性”と相いれないことは云うまでもないだろう。

“詩的なことば”は、“社会的に認知され、制度化された言葉”が必ずしも言葉の働きのすべてではないことを主張して、伝統的な言語観に反旗を掲げている。丸山圭三郎によれば、このような詩的なことばの意義を指摘したのはソシュールだと云う[2]。しかし、ソシュールが、「一般言語学講義」の中で、言語の基礎として強調したのは、ある単語の意味はそれ以外の単語の意味を考えて決まるという言語の”体系”と関係性ということであった。実際、概論的な書物には、ソシュールの貢献はことばの体系や関係性であると紹介されている。こうしたソシュールの二つの業績は、「一般言語学講義」で自ら定めた言語科学的基盤を、自ら壊しているもので、矛盾しているように見える。初期の言語科学の考えを変えたらしいのだが、その辺りの経緯は筆者には分からない。

いずれにしても、西欧の言語学を巡る出来事の背後には、必ずと云ってもよい程、西欧の伝統をなす歴史が関わっている。その意味で、本稿に関係する範囲で言語を巡る西洋の歴史に触れることにしたい。

 

4.ロゴスとセンス:言語と感性のつながり

言葉を巡る西欧の永い歴史には、「言葉は、世界を有意味化する」と云う基本的な思想が流れている。確かに、どのような意味であるにせよ、我々はこの世界が意味をもっていると信じている。が、それをいかなる方法で知るのかについては、言葉を抜いて考えるのは大変難しい。ここで、有意味化とは、世界を切り出して理解する(目の前に置いてみる)ことであり、言葉はその行為を行うという伝統的な思想がある。以下では、こうした伝統的思考の起源に注目して、ギリシャ時代に遡行しよう。

ロゴスは言葉の語源として知られるギリシャ語である。ここでは、そのロゴスに着目しよう。

現代でも、ロゴスという言葉の影響が、ロジック(論理)やBiology、Ecology等の学問分野の名称に認められるように、ロゴスの原義には、言葉の他に、理性や根拠、さらに比例、尺度など多様な意味がある。そのため、ロゴスの本質は分かりにくい。そこで、ロゴスの動詞として、ロゴスを働かせるという意味のギリシャ語レゲインの意味に注目したのは、ハイデッカーらしい。丸山によると、ハイデッカーはそこから「言語と存在」の関係について考察を進めたと云う[2]。

実はそうしたハイデッカーが注目したロゴスの動詞レゲインに、「感性とことば」というテーマにとって、無視できない要素があることを見出せる。 結論的にいうと、ハイデッカーによれば、ロゴスの働きレゲインは、「語る」、「書く」などに留まらず、「読む」、「聞く」も同じ働きだと云うのである。

レゲインはロゴスの働きを表しているのだから、「語る」や「書く」という意味があるのは当然だが、それと共に、「聞く」や「読む」、特に「読む」と云う意味があることを、筆者は最近まで知らなかった。確かに、書かれた言葉としての「書物」を読むことは誰もがやる当たり前のことであるが、それは、視覚が働くからではなく、「読む」ことはロゴスの働きなのだと云われ、筆者は不意を突かれたような気がした。読むという行為を自然科学で理解するにはどうすれば良いのだろう。近年、脳活動の計測技術が目覚ましく進歩し、脳科学が期待されているとは云え、要素還元論を旨とする自然科学の方法では「読む」ということがどういうことなのか、立ち往生するのではないか。もしそうなら、そこに非常に大きな理論的な穴が開いていると云わざるを得えないだろう。

言葉は、文字を目で追うだけでは把握出来ない。実際私たちは、書物を読むとき、同時に声をだして同じ文を読むし、また、同時に声を聞いている。書を読むことは、目で読むと云うより、ロゴスを働かせること、つまり、取り集めて目の前に置くことなのである。

上では、ロゴスというギリシャ時代に起源のある言葉とその動詞レゲインを引き合いに出し、大げさな話になってしまったが、ここで、現代の英語で「読む」に対応するreadを取りあげ、その意味がどうなっているか、辞書(ジーニアス英和大辞典)で確かめておこう。readという項を引くと、そこには非常に長い説明があるが、それ自体readが多様な意味を持っていることを表している。以下では、他動詞の意味について一部を挙げる:

  • 本などを読む。読んで理解する。
  • 詩・論文などを(声をだして)読む。
  • 3a.(観察などによって)(ある意味)を読み取る。(記号など)を解読する、(人の心・考えなど)を読む、(夢など)を判じる、(運命など)を予言する。(人が)(物・事)を…と」解釈する。 以下略。

以下、自動詞、名詞が続くが省略する。

これらより、ギリシャ語でロゴスを働かせるという意味のレゲインに含まれる「読む」の意味の広がりを現代の英語を通じて伺えるのではなかろうか。

それはともかく、ロゴスの働きは、西欧の伝統の中で理性の働きを支えるためのものであり、それによって、西欧の思想的伝統では、感性を切り捨てることが実行に移されてきたところに問題があるのである。

実は、そうした歴史的経緯に反して、感性とことばを結びつける上で、ロゴスの働きは決定的に重要な働きをすると考えられるのである。

つまり、我々は以前、感性とはセンスのことと理解できると云った。センスは、「違いが分かる」という、価値を含んだ直感的な判断が本質的である。が、その直感的判断がどこに繋がっているか、あるいは、どこから来るのか、それが不明であった。

その重要な手掛かりが上のロゴスの議論から得られたようだ。端的に云えば、センスのもつ差別化する直感的判断は、直前で説明したロゴスの働き、特に表現された対象の意味を「読む」ということに繋がっているのである。云い換えれば、センス=違いを感じ分けることは、ロゴスを働かせること、つまり、何かを読む、あるいは解釈することから来ているのである。これは、ほとんど明らかなように思われるけれど、ロゴスとセンスを繋ぐ、このような感性の捉え方はこれまで聞いたことはない。

一方、既に指摘されていることだが、前章の“詩的ことば直接的にはロゴス(=理性)とは異なる情念と一般に関わりを持つとされる[2]、[3]。

従って、今までのことを手短にまとめると、言葉を介して感性に至るには、少なくとも、“詩的なことば”に加え、本節のロゴスとセンスを繋ぐ道の二通りが可能であることが分かった。

今回行った考察はまだ極めて荒っぽい。詰めた議論や感性工学への応用については、今後当サイト感性コーナー「感性とことば」などで進めていきたい。

 

参考文献

[1]F.ソシュール、一般言語学講義、小林英夫訳、岩波書店、1972
[2]丸山圭三郎、言葉と無意識、講談社、1987.
[3]中村雄二郎、感性の覚醒、岩波書店、1997

 

2016.07.11

 

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あとがき

本稿は現在中断している「感性とことば」の第5回分の予定として作るつもりでしたが、哲学のコーナー向きの題材と思われたため、そちらに加える形にしました。「感性とことば(5)」の」予定については、出来るだけ1か月をめどにまとめたいと考えています。