林 正樹
はじめに
だいぶ昔のことだが、仕事場の同僚の何人かと話していて、絵画まわりの話になったことがあった。話の内容は忘れてしまったが、そのとき一人の女性がこう言ったのである。
「昔の人がなぜ遠近法で絵を描かなかったか分からない。だって見たとおりに描いたらそうなるはずだから」
当時、西洋絵画に夢中だった自分は、即座に、なんという間違ったことを言うやつだ、と反応したのだが、かと言って、その場で適切な説明はできなかったのを覚えている。たしか、こんな風な対話になった覚えがある。
「じゃあ、あなたは、たとえばピカソとかそういう絵を見てるけど、あれって遠近法もへったくれもないじゃん」
「だって、ピカソのはわざと遠近法を崩したんでしょ? ふつうに見たまま描けばああはならないじゃん」
「じゃあ、子供の絵はどうだ。よく、人と犬と車が全部同じ大きさに描いてあったりするだろ?」
「子供の絵は、まだ見ることについて未成熟なので当然じゃない?」
「でも、昔の絵ではたしかに遠近法は崩れているけど、昔の人はさ、とくに宗教画なんかになると目に写ったものを描く、ということよりずっと重要なものがあったんだよ。その重要なものを描いたわけだからそれが遠近法になってなくて当然なんだよ。絵というものの意味が現代と違っているってことだよ」
「でも見たまま描けば遠近法になるよね」
といった感じで、話はかみ合わず終わってしまった。自分は今でも、彼女の冒頭の発言はおかしいと思っているし、極端に言うと、一般的な現代人のただの思い込みだとすら思っている。当時の自分は絵画芸術に夢中だったさなかでもあり、こういう発言を聞くと、ほとんど条件反射のように「それは違う!」という風になるのだが、いざ、実際に当の発言をする人に何がおかしいか説得しようとすると、きわめて難しいのが分かる。というわけで、少し前、その説得の道筋について考えてみたことがある。ここでは、それを文章にまとめて語ってみることにしよう。お題は「昔の人がなぜ遠近法で絵を描かなかったか分からない。だって見たとおりに描いたらそうなるはずだから」という発言は、どこがおかしいのかについてである。
遠近法を自分の眼で確かめる
たとえば、今、自分はノートパソコンの前に座っている。そして少し離れて向こうに四角い窓があり、その向こうに外の景色が見えている。自分の身の回りを実際に見回してみると、たしかにその風景は遠近法に従っているような感じに見えている。しかし、これは自分で確かめるとすぐに分かるが、目線を完全に固定した状態で風景を見ることはほとんどできない。自分の見ている目の前の世界が遠近法に従っているか否かは、目線をあちこちに動かさない限りわからない。それで、そうやって目線を動かして見てみると、見た風景は正確な遠近法にはなっていなくて、少しずれていることが分かる。
眼球を固定したときにクリアに見える角度というのは思ったよりずっと狭く、医学的な調査によれば見えるエリアは角度にしてほんの10度弱となっている。したがって、人間は、これを補うために眼球をあちこち動かして、そのときどきの像を脳で再構築して広エリアの画像を作っているのである。
このように、自分が見ている風景が遠近法にきちんと則っているかどうかを判断しようとすると目線の移動が必要なのだが、実際には当然、首まで回して判定しなければいけなくなる。やってみるとわかるが、これをすると、遠近法で言うところの消失点が誤ったところにできてしまう。遠近法というのは、そもそも外界の立体を平面に投影した世界なので、目線を動かして認知した立体世界と異なっているのが当然のことで、直接確認しようとすることに無理があるのである。
以上は製図でいうところの透視図法の話(1点透視法、2点透視法などと言われるもの)だが、遠近法にはそのほかに、空気遠近法、零点透視法、短縮法などいくつかの種類がある。たとえば、次に零点透視法を取り上げてみよう。これは「遠くのものが近くのものより小さく見える」というものである。子供の絵などで、遠くの木や車も近くの犬も同じような大きさに描いたものがあるが、それはこの零点透視法に反しているわけだ。
しかし、再度、この遠くのものが近くのものより小さく見える、というのを、実際に自分で確かめてみると面白い。今、僕の前には至近距離にノートPCがあり、遠方に葉をつけた木が窓越しに見えている。これら2つを同じ視野に入るようにして見ると、これら2つはほぼ同じ大きさに見える。しかし、実際には、ノートPCの方が木よりも圧倒的に小さい。これは零点透視法により、遠くの大きな木が小さく見えるせいである。
たしかに、そうなのだが、今度は、自分の意識を少し操作して、遠方の木だけを見てノートPCを意識しないようにしてみよう。そうすると、木は木だけに見え、確かにちょっと遠くにはあるけれど、自分がそこまで歩いて行って、その大きな木を両手で抱えるような動作を想像することでその大きさを想像上で把握すると、その木は相応の大きさに感じることができないだろうか。
ここでも、やはり、先の透視図法を確認するときに目線を動かす、首を動かす、というのと同じく、注目点に対する意識を動かす、というように、なんらか「動いて」把握している。つまり、人間が何かを認識するときには、どうやっても「運動」が入ってきてしまうわけである。
遠近法による像はどこにも存在しない
知っている人には言うまでもないが、遠近法というのは、レンズと乾板というカメラ構造を想定したときに、そこの像において成立する幾何学的法則である。単純に言えば、カメラのファインダーをのぞいたとき、そこに写っている像が「遠近法による画像」なわけである。このカメラのメカニズムそのものは、生身の人間の視覚のように運動がつきものというのとは違って、機構は完全に静止していてあいまいな部分は無い。つまり、人間の目は動くことで働いているが、カメラはメカニズムとして完全に止まっている。そして遠近法は、この静止したカメラの方を使って定義された手法である、ということである。
それから、考えてみると、人間の目の眼球にくっついているレンズは、カメラについているレンズに似てはいるけれど、完全に同じものではありえない。たとえば、カメラのフィルムに相当する網膜は平面ではなくなんらかの曲面であって、網膜に写っている像はカメラのファインダーに写っている像と完全一致するはずがない。
こうやって考えてみると、面白いことに、人が目で見たものを紙の上に描く、という行為全体の中に「厳密な遠近法に則した像」というのは実は現実にはどこにも存在しない、ということが分かる。できあがった絵が、仮りに厳密な遠近法に則した絵だったとすると、それは、現実の世界では、紙の上に描かれて初めて生まれたもので、それが生まれる前には、描く人の頭の中にしかなかった、ということになる。
もっとも、もし、そこに実物のカメラがあったら、そのカメラで写せば厳密な遠近法に則った像が現実に現れる。少し極端に言うと、もし物理的なカメラが無かったとしても、外界の立体物を、カメラモデルを使った透視変換という数学的関係によって処理する、という「理論」が存在していれば、遠近法に則した像は数学的に存在することになる。
しかし、ここまで考えて来ると、「遠近法」という理論の位置づけがずいぶんと下がったように感じられないだろうか。もし、遠近法が先験的な事実ではなく、ただの方法論なのだとすると、遠近法以外の他の方法論はいくらでも思いつくし、遠近法はその中の単なるひとつの手法に過ぎない。例えば、透視図法ではなく平行投影法という数学手法を使うと、遠くのものが小さく写るということはなく、現実の大きさのまんまを反映した像が得られる。にもかかわらず、なぜ私たちは、この遠近法だけに法外に重要性があるように感じてしまうのだろうか。それは変ではないかと思う。ここでいったんまとめると、遠近法というのは実は、人間の眼球の構造がカメラに似ているという発見を元にして行われた「発明」のひとつである、ということである。
見た通りに描くとは
さて、少し前に書いた、目の前に写っている像を把握するには眼球や首を動かさないと無理だ、というところに戻ろう。私たちが実際にペンを持って紙を前にして自分の目に写っている光景を、眼球や首を動かしてそのままスケッチしようとすると、これまで述べたことから、それは厳格な遠近法に基づいた絵にはならず、必ずどこかが、これは必然的に歪むはずである。
もし、誰かが描いたスケッチが、完全な遠近法に沿っていたとすると、それはその人間が遠近法という理論を知っていて、それを使って自分の見た像を頭の中で再構成してから紙の上に描いたからである。そういう意味では、風景を描けば遠近法になってしまうような人は「自分の見た通りに描いていない」とも言える。
冒頭の問題提起の「見たとおりに描けば遠近法になるじゃん」は、実は、そうではないということがこれで分かる。遠近法を知っていて、その遠近法理論が作り出す「人工像」にさんざん接してきて、それが当たり前の常識となって心身の一部になってしまった人にして、初めて「見たとおりに描くと遠近法になる」のである。
そうでない人は、今まで延々と述べてきた理屈から言って、絵は正確な遠近法にはならない。それどころか、その、見たとおりのスケッチが遠近法からかけ離れたものになる人だっているはずである。ちょっと極端に言うと、「だから」子供の絵はあんな風に遠近法にならずに崩れるのだ。なぜなら彼らは「見たとおり描いたから」である。
なぜ遠近法には説得力があったのか
さて、それにしても、遠近法できれいに描かれた絵と、遠近法が発明される以前の遠近法が崩れた絵の二つを並べて、遠近法の絵の方が「進歩」している、と感じることが多いと思うが、それは一体どこから来る感覚なのか。それは、おそらく、遠近法が客観的手法だ、というところにあるのだと思う。つまり、遠近法は多くの人を説得できるのである。誰が見ても美しかったのだ。
私の好きな逸話にこんなのがある。前期ルネサンスのイタリアの画家にパウロ・ウッチェロという人がいる。遠近法を誰が初めてやったかは定かではないが、一説にはこのウッチェロが発明したとも言われている。ウッチェロはある日、この遠近法、つまり透視図法に気づき、その方法に基づいて絵を描いたのだそうだ。できあがった絵を自分で見て驚嘆し、「遠近法とはなんとすばらしいのだ」と、そのあまりの美しさに、絵を前に夜も眠れなかったのだそうだ。
ウッチェロが自分のアトリエで完成した遠近法に基づいた絵を、外へ持ち出して他の人に見せたとすると、おそらく当時のほぼみなが驚嘆したと思う。それが証拠に、ルネサンスに入り、遠近法は急速に普及して、あっという間にほとんどの画家が遠近法に則って絵を描くようになる。それほどこの遠近法は魅力的だったのだ。ポイントは、画家だけでなく「皆」が魅せられたということである。つまり、誰にでもわかりやすく、誰でも説得できたのである。
その理由は恐らく、人間の眼球の構造がカメラの構造にきわめてよく似ていた、ということがあったからだと思う。さっき言ったことと矛盾して聞こえるかもしれないが、遠近法を知る前から、人は風景をたしかに遠近法的に見ていたのである。この遠近法という手法については、多くの人が納得できる大きな客観性を持っていた、と言えると思う。
遠近法を「発明されたある手法」として位置づければ、これは多数ある手法の中のひとつに過ぎず、遠近法は特にヨーロッパの人たちをそのかなり早い時期に説得した手法であった、ということが言える。逆に、遠近法ほどの力があったかどうか知らないが、遠近法以外の手法はいくつもいくつもあったはずだ。特に、ヨーロッパを離れるとそれが顕著なのは知ってのとおりである。われわれ日本人は、平安絵巻や浮世絵で使われた絵画手法を知っている。それはヨーロッパの遠近法とはずいぶんと異なっており、そもそもカメラを模した手法ではない。
何のために絵を描くか
さて、少し話しを変えよう。ここでの話しはもともとは絵の話なのだが、そもそも絵というのは何のために描かれるのだろう。「目に写った風景に似たものを紙の上に移す」、というのは絵を描く動機としては何となく薄弱に思える。何でそんな面倒なことをしないといけないか分からないからだ。しかし、それ以外の動機としては、古今東西、太古の人間の洞窟の絵や、写真の無かったころ記録に残すための絵や、宗教における礼拝の対象としての絵などのたくさん歴史を見てみれば、あげたら切りがないほど動機が見つかるはずだ。
それから、できあがった絵の評価について言うと、先に言った絵を描く動機、そしてその動機の元にある目的が達成されているかどうかによって評価がなされるわけなので、ここで「カメラに写る像に近ければ近いほどいい絵だ」というのは、たくさんある絵の評価法の中のほんの一部に過ぎないことも分かる。つまり、遠近法に則った絵というのが、他に比べてやたら高く評価されたとすると、それは実際はおかしい、ということになる。ましてや、カメラ自体が発明される以前の絵画においては、カメラ像に似せる、ということ自体がまだ存在していないわけでなおさらである。ちなみに、本当にそのままの意味でカメラ像を絵画理想に仕立てた人たちが現れたのは、かなり最近のことで、少し前のモダンアートにおけるスーパーリアリズムという芸術の一流派にすぎない。
実際、特にモダンアート、あるいは、ヨーロッパを離れて他国の、特に日本を含めたエスニックな国の芸術を見ればすぐにわかるが、絵というものは、多種多様なたくさんの作画動機を、ほとんど無制限に盛り込むことができる表現手法である。たとえばピカソは、その無制限な作画動機を次から次へとおそろしく精力的に実践してみせた代表的な芸術家であろう。彼の作品の全体で見ると、遠近法はちょうどそれが正当に占める位置のていどしか現れない。ピカソの絵の中で、きれいな遠近法になっている絵の枚数を数えて、それが全体の何パーセントに当たるかを計算すれば、遠近法が絵画芸術に占める量が分かるというものだ。ピカソという天才は、その作品の製作動機というものを、時間からも空間からもおそろしく自由になって、古今東西、古代現代の別なく、ひたすら収集しては実践した人とも言える。
ピカソをはじめとする並み居る近代の芸術家たちが、そのような多様な作品を発表するにつれて、われわれ民衆は徐々にそれに説得されていったのだと思う。すでに1900年以降のモダンアートの時代をとっくに経験してきたわれわれの住む現代で、私たちの身の回りを見回してみよう。私たちはたくさんの絵に囲まれて生活しているが、そこではむしろ遠近法にきちんと従って描かれたものの方が少数になっていることが分かる。もっとも、そういうものを私たちは絵とはあまり呼ばず、デザインと呼ぶが、それは同じことだ。
以上のように、遠近法というのは手法の一つに過ぎないだけでなく、現代においては既にそれほど大きな力を持つものではなくなっていると言える。
おわりに
さて、ずいぶん長くなってしまったし、このへんでまとめておく。まず、ルネサンスより以前の昔の人が遠近法にしたがって描かなかったのは、まだ遠近法が発明されていなかったからである。そして、昔の人の絵には、遠近法による視覚イリュージョンの再現が現れる前に、たくさんの製作動機があった。それらの動機には、意味的なもの、実用的なもの、感情的なもの、象徴的なもの、宗教的なもの、多々ある。そして、遠近法が発明されて以降、遠近法自体がそれら動機の中の一つになったわけだが、遠近法とその他について優劣をつける理由はどこにもない。
むしろ、特にヨーロッパにおいて、遠近法が流行った歴史的な時期と、理論や客観性が歴史的に大きな力を持っていた時期とが、オーバーラップしていることに注意すべきだと思う。遠近法という手法は数学によって記述できるところからも分かるように、きわめて客観的で理論的な手法である。その手法が否が応でも人々を説得できたということは、それを受け入れた人々が客観的で理論的なものを尊重して生活していた、ということの表れでもある。
さて、ひるがえって、現代という時代は、そういった西洋的な論理的な客観性の限界が意識されて以来、それが、それまでの主流から外れはじめている時代だと思う。そんな現代に生きているわれわれが「見たまま描けば遠近法になるはずなのに、そうならないのはおかしい」と発言することは、むしろ、表面的で画一的な、古い西洋的価値に基づいた科学教育の弊害なのではないかと勘ぐられても、おかしくないのではないだろうか。