長島 知正
キーワード:感覚、知覚、共通感覚、非線形言語
1.諸言
感性をセンスとして把握しえることは既に指摘したが、センスは直観的に総合的な判断という働きをするということから知覚の一種と云える。本稿{2}では、デカルトの心身二元論が、最も日常的な姿で現れる知覚の問題に焦点を当て、感性および言葉との関連を考える。
まず、前稿{1}の議論で欠けていた知覚の性質および知覚と感覚との関係から、感性の概念について基本的な検討をする。一般に知覚とは、対象と向かい合っている場合に、感覚器官を介して現れる対象についての像を指すが、それは私達が自分の身の周りについて認識する時、最も基本的な働きをしている。とりわけ、知覚に限らず、対象が直接与えられていない場合の記憶や連想の働きを含んだより広い認識が如何に言語とつながるかは普遍的な課題である。本稿でもその課題について考察した後、感性を体系的に扱う方法として、言語的な方法に着目する。特に、非線形言語理論による方法の基礎的な特徴を取上げる。
最後に、感性を介して、二つの文化の今日的課題をまとめる。
2.感性と知覚・感覚; 私たちは何を見、何を聞いているのだろう?
前稿{1}で、感性をセンスと把握することの妥当性を議論した。その中で、センスは、身体・生理的に働く特殊感覚の働きとは対照的な、精神的に働く感覚と見做せることを指摘した。また、感性=センスは、デカルトの心身二元論で切り離された、身体と精神の間を跨いでそれらを繋ぐものとしてあると述べた。これによって、デカルトによって宙吊りにされ、居場所を失ってしまった、私達の感性の取りあえずの住処が与えられると思われる。
しかし、こうした説明は文学的で、比喩のレベルでの議論としては受け入れられるとしても、理系の人にはやはり不満が残るというのが本音ではないだろうか。一方、事は二元論の核心にふれており、その筋の人達からはあがいても無駄で、現在科学的に満足な説明は適わないことだ、と見られるだろう。とは云え、問題自体を明らかにする事は無駄ではないと思う。
以下では、感性をセンスとしたその説明の中にある、「身体と精神を跨いで繋いだ、、、、」 の意味について、知覚および感覚を介してどう理解されるかを考える。
そのため、知覚と感覚という言葉の使い方について、ここでは特定の分野からではなく出来るだけ広い立場から整理をする。先ず、感覚から始めよう。
生理学などの物理化学を基にした自然科学分野では、感覚について詳しく調べられてきた。感覚は、光・音などの刺激をそれぞれ対応する感覚受容器が受けた時に経験する「感じ」である。古くから視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚という五種の感覚、五感が知られてきたが、近代になって、さらに、熱覚、平衡感覚、方向感覚、運動感覚、体性感覚、筋肉感覚、そして痛覚がつけ加えられた。近代生理学では、伝統的な五感は身体への外からの刺激を受け取る外受容感覚と云われる。
ところで、伝統的な五つの感覚器は身体的にはっきり分けられていることから、各々の感覚の働きも個々別々に捉えるということが普通になっている。
一方、知覚について、広辞苑で調べると、「(Perception) 感覚器官への刺激を通じてもたらされる情報をもとに、外界にある対象の性質・形・関係および身体内部の状態を把握するはたらき」と説明されている。一般に感覚と知覚の関係については、広辞苑の説明にも見られるように、感覚がまずあって、その上に知覚が乗っているという順に捉える。このことは、知覚内容は当然感覚に依存するが、全体性のある知覚は個別感覚に影響しないという予断もあると推測される。実際には、知覚の前に感覚があるのではなく、感覚と知覚は切り離せない。従って、知覚の性質が個別感覚にも影響することがある。
感覚を要素として知覚を把握しようとする見方は今も自然科学では広くみられるが、それはデカルトの要素還元論の影響と云えるかもしれない。
前稿{1}で説明した知覚の因果説はこうした見方が集約的に現れたものと思われる。即ち、知覚とは、対象となる事物があり、そこから認識主体に刺激が到達し、知覚像が作られるという仕組みによって成立するというのである。この知覚因果説の見方は現在、知覚研究者を別にすれば、相当な割合の科学者や技術者、つまり理系の圧倒的な人達に信じられている基本的な認識だろう。いやむしろ、理系に限らず、上の広辞苑の説明を読んだ人はほとんど全員知覚因果説の成立を信じるだろう。
しかし、既に指摘したことだが、「知覚は、まず対象となる物があって、それが主体に取り込まれ、あたかもアナログ写真機のフイルムと同じように結像するようなものだ」という知覚因果説を正当化することは非常に困難なことである。
大切な事だから、どういう困難があるのか、ここで前節とは別な説明をしておこう。
困難は端的に云えば、知覚因果説では外にある事物の知覚像は主体内部にある事になるが、見ている知覚像は実際には私達の身体の外部に広がって見えるという事実である。つまり、知覚像の位置は主体があると思われる身体の内部ではなく、実際には身体から遠くはなれた場所にあるのは何故か、その説明が必要である。しかし、説明には、いわゆる“投射”と云われているような、非合理な理屈を動員せざるを得ないのである。
知覚の一種として、感性の科学的な理論化は、上の知覚問題の解決と切り離せないと云える。
以下では、知覚とはやや異なる観点として、感覚の側から感性=センスに近づく道を取上げよう。感覚、特に五感については、外部にある対象の形や性質について、各々の感覚を個別的に独立に受動的に働くと思われがちである。しかし、互いの感覚は常にばらばらに個別的に働くものとは限らないのである。
そうした性質は、例えば、あるものの色と味覚といった異なった感覚を一緒にして同時に比較することが出来ることに現れている。もし、感覚が色や味覚といった個別的に働く感覚に限られているならば、赤や緑といった色の違い、あるいは、甘さの違いといった味覚の違いはそれぞれ単独に比べられても、あるものの色と味覚を一緒にして同時に比較することは出来ない。例えば、目の前にある果物、例えば、イチゴの色合いと甘さを一緒にして同時に比べることは出来ない。それが可能になるには、異なった感覚を共通の一つのものとしてまとめている感覚的性質が働いているからである。私たちはこの性質によって、イチゴの糖度を色合いから見定めることが出来る。この見落とされがちでありながら大切な性質は“共通感覚”と呼ばれている。共通感覚は私達が住む世界が色あり、匂いありのまとまった一つの世界であることを成り立たせるうえで不可欠のものと云える。上の説明から、共通感覚が感覚に基づくものであっても、知的な、即ち精神的働きもたらすことを了解されよう。つまり、感覚でありながら、精神的な働きをする、つまり精神的な働きをする感覚と云えるだろう。換言すれば、身体に属する感覚と精神とは、別々に働くのでなく、繋がっていると云えるのである。
ちなみに、共通感覚は英語にすればcommon sense である。Sense の原義は(個別的な)感覚であるが、common sense は アリストテレスの時代からその比喩として、精神的な働きをする感覚と考えられてきた(1)。しかし、残念ながらミラー・ニューロン等で話題になったとは云え、未だ実証的な研究は十分なされていないと思われる。
3.言語によって、感性は体系的に扱えるだろうか: 非線形言語理論
現在、理系の分野における感性の研究としては、工業デザインのような工学的応用を目指すものがある。そこでは、デザイナーは製品の感性的性質に、アンケートによって消費者の感性的情報を反映させることよって、製品の価値を制御しようとしている(2) 。そのため、消費者の感性的情報は様々な統計的な方法で処理され各種の製品の製造に応用されている。コンピュータの性能の向上およびインターネット技術の普及は驚異的である。一昔前は考えられなかったような消費者の行動に関する大量データが今日では活用されるようになった。最近、BIGデータと呼ばれ、経済的な面から耳目を集めていることは良く知られているところだろう。しかしながら、ここでは、感性に関して、そうしたBrute Force的な方法で得られた結果とは一線を引きたい。その基本的な理由は人間のように“生きた情報“を使う情報システムの原理は未解明で、そうした中で、Brute Force的に集めた”人間の情報“とは果たして人間の感性の本来的な性質や意義に沿ったものか、確かめる必要を感じるからである。従来使われている統計的な処理は、統計的な結果であり、人間の感性自体の性質や構造を直接的に知るための方法ではない。感性の体系化には、感性の理論が不可欠である。
既に指摘したような知覚因果論の困難や感性は精神と身体を繋いでいるという性質等から察せられるように、感性の理論の構築には、従来の自然科学の研究とは異なった方法を含む必要がある。
センスは知覚の一種であることは既に述べた。その意味で、センスは科学にも当然関わっているが、科学とセンスの関わりについては、稿を別に改めて考えることにして、ここでは、従来いわば科学と対照的な分野と考えられてきた、詩や絵画などを想定して、知覚と言葉の関係を考えることにしよう。
知覚については、前節、対象全体を把握しようとするところに個別感覚と異なる基本的特徴があると指摘したが、実際の知覚、特に日常生活の知覚は、様々な感覚印象をありのまままとめたものではなく、その時々の関心や過去の記憶などの体験の影響をうけて作りだされるのである。
つまり、知覚された日常生活世界は、そうした記憶のバイアスを受け、いわば再構成された世界といえるのである。
そのような感覚的な知覚世界は、中村が指摘するように言葉と協働して支えられている(1)。例えば、私たちは世界の景色を眺めている場合、無意識にその色彩の種類を識別する言葉を探している。そのような知覚の典型が詩の世界といえるであろう。そうした感性の世界が洋の東西を問わず古い歴史として残されていることは良く知られた事実である。
ところで、感性は“心にしみる音楽”といった言葉によって表現されているように、感性の分析のためには、まずもって自然言語による方法が相応しいと考えられる。その上、感性の表現の最も大きな特徴が“比喩(メタファー)”であることから、特に、言語の非線形性を含む言語科学的な方法が一つの候補と思われる。ここで、言語の非線形性とは、言語学では通常、Non-compositionalな理論と呼ばれてきたものである。
例えば、諺(ことわざ)のように、文全体の意味が単語など文の構成要素の意味で決まらないような文を扱う理論である(3)。また、言語の要素としては、単語自身の意味が多義になる場合も多いけれど、それも意味が一意に決まらないという意味で非線形と見做すことも出来る。非線形ということが言語学にどれだけ有効かとは未だはっきりしていないが、少なくとも、デカルトの要素還元論の枠を超えようとしていることは明らかである。
いずれにしても、感性の理論化はほとんどまっさらな未踏領域である。例えば、私たちは長いトンネルを抜けて眼前に突然まっさらな雪に覆われた高山が視界に飛び込んできたような場合、自分のうけた感動を表す適当な言葉が見つけられず、その時、“得も言われぬ美しさ”と云うが、ここには、感性と知性は互いに干渉し合う性質がみられる。このような感性の基本的性質の解明や分析は未だ手付かずであり、認識論における相対主義の立場(4)から分析できるなら、感性のみならず、感性と知性の両者を跨ぐ相対的な関係を示す重要な指針が得られるだろう。
4.結語:感性の行く末
前稿{1}で、スノーが唱えた二つの文化の実質的な起源は、デカルトの心身二元論に始まると見做せるのでないか、という推測を述べた。スノーの二つの文化論は1960年ころの英国を舞台にしたものであって背景は異なっているが、既に触れたように、筆者には二つの文化という骨格は今日の我が国の状況に重なっていると思われる。
二つの文化論では、登場する著名な文化人が交わす内輪の会話に味付けられているとは云え、主要な内容は、価値観を異にする人達の相互理解が如何に難しいか、その事が、特に人文系の文化と自然科学系の文化という歴史や伝統に大きな差異のある代表的な文化を対象に語られている。この事は我が国の中でも全く成り立っているのではないか? さらに、そのことが、我が国の姿に大きな影響しているのでないか?二つの文化は人間の本性なのだから、それらの和解など所詮せん無いことという識者の声が聞こえてきそうである。しかし、二つの文化の和解などという大げさなことは別にして、質的に異なった互いに相反した価値を持つ事物の間に生じがちな誤解は、それらの比較の困難さに起因するという点は注目に値するのではないだろうか。何故なら、質的に異なった事物は従来の自然科学の範疇からはみ出しているからであり、また、感性を科学的に扱うには、常識を変えなければならない。
最後に、本論の要点を述べて終えることにしよう。
“心にしみる音楽”を感じとる感性、つまりセンスは“感性的な認識”である。それは悟性や理性による認識とは異なった人間の基本的認識である。
感性の豊かさに読者の関心が少しでも広まれば、本稿の目的は達せられた。
文献
(1)中村雄二郎、共通感覚論、岩波書店、東京、2000
(2)長島知正、感性的思考、東海大出版会、東京、2014
(3)池原 悟、非線形言語モデルによる自然言語処理、岩波書店、東京、2009
(4)S.Watanabe,“Epistemological Relativity, Annals of the Japan Association for Philosophy of Science, vol.7,pp1~14,1986